羽田健太郎氏の霊と、いと昏き
Wizardryの思い出に。
<第1章:プロローグ>
暗黒に閉ざされた大地を、滝のような雨が打ちすえていた。
ごうごうたる轟きの中、男は激しく背後を振り仰いだ。都市を取り巻く巨大な城壁がしぶきにつつまれているのが、暗闇の中にかろうじて認められた。
若者の顔が歪んだ。それは炎の紋をあしらったローブに叩きつける氷雨のためでも、えぐられ焼けただれた左目の痛みのためでさえなかった。今逃れでた城塞都市への、その地下に封じられた数多の怪物たちへの、なによりそれらを越え得ぬ己が無力さへの限りなき憎悪の顕れであった。
彼は呪った。たとえ何年かかろうと、命を捨てることになろうとも、この地を焼き滅ぼす秘術をあみださずにおかぬと。だが、彼は自覚しえなかった。右目にたぎる光にいまや狂気が芽吹いていることを。巨大な打撃に光を永遠に失った左目以上に、人間としての己が決定的に損なわれていることを!
「ラァルダーーぁアァーーっ!」
若き火術師の叫びは、咆哮は、だが轟く豪雨の響きに呑まれ、誰の耳にも届くことはなかった。
「封魔の城塞」の二つ名を持つ城塞都市アルデガンの建立は、人間と魔物との抗争史における一つの時代の幕開けであった。
第三暗黒期にエルリア大陸北部の洞窟へ幾多の魔物たちを封じた尊師アールダは、巨大な力を持つ僧ではあったが定命の人間であることに変わりはなく、大陸各地から魔物を洞窟へ追い込んだとき、その命はもはや尽きつつあった。そのためアールダは魔物たちを封じた洞窟の真上に城塞都市を築き優れた戦士や連達の術者たちを定住させることで、魔物の地上への侵略を永く防ごうとしたのである。
だがそれからわずか二百年後、人間族の力の結集だったはずのこの「封魔の城塞」は深い翳りに覆われようとしていた。
そして、さらに二十年後……。
<第2章:訓練所>
激しい気合いの声が巨大な城壁にこだました。朝霧を断つ若者の一撃を大男の木刀がまっこうから受けた。
赤毛の若者はすばやく身を引き、隙なく身構えたまま大男と相対した。細身だが鍛えられた体に闘気をみなぎらせ、鳶色の目で相手を見すえるその姿には巣立ちをむかえた鷹にも似たまっすぐな覇気が満ちていた。
若者の気迫を正面から浴びながら、だが大男の構えには小ゆるぎもなかった。白いものがめだつ剛毛と赤銅色の巨体を覆う無数の傷跡がくぐり抜けた修羅場を窺わせているが、灰色熊のごときその姿に老いの影はなく、重く、堅く立ちはだかっていた。
「まだまだっ!」
掛け声とともに若者がさらに数度、角度をかえて師を襲った。真剣とまがう音をたてて二つの木刀が噛み合った。
「よし」大男の口元がわずかにゆるんだ。
「腕をあげたな。アラード」
精悍な若者の顔が少年のように輝いた。
「光栄です。ボルドフ隊長」
ボルドフは構えを解いた。
「おまえの剣は訓練生の誰よりも速い。さらに磨くがよい。破壊力は体格とともに伸びてこよう。これからは実戦でカンをやしなうことだ」
アラードの息がはずんだ。
「では、私を!」
「洞門番に登用する。午後からの班だ。昼食後に詰所へゆけ」
ボルドフは表情を引き締め、つけ加えた。
「生き延びろ、アラード」
挨拶もそこそこにアラードは訓練所を出た。胸のたかぶりは抑えようもなかった。長く厳しい訓練をおえた誇りと自信がきたる戦いへの闘志となって満ちていた。
だが、見おくるボルドフの顔は厳しかった。アラードの天分がいかに非凡であれ、怪物との戦いに勝ち残るためには彼にまだ備わっていない破壊力がどれほど重要かを知り抜いていたからだ。開いたままの戸口を見すえるその目には、育ちきらぬ戦士さえも消耗戦へ投入せねばならぬ現状への憤りが黒々と燃えていた。
----------
澄んだ少女の声が複雑かつ精妙な韻律の言葉を、信じ難いなめらかさで紡いだ。
華奢な色白の少女だった。淡い金髪を後頭部で束ね,簡素な胴着を着たほっそりした姿は、かよわい印象さえ与えかねないものだった。だがその呪文は石壁で囲まれた大広間の空間に作用し、大きな力を秘めた特殊な<場>をつくりだした。唱えた者の意のままに、いかようにも状態を変えうる小規模なカオスを。
しかし、それはいかなる形も取れぬまま突如として揺らぎ、消滅した。少女の空色の瞳に落胆の影がおちた。
「集中できないようね、リア」肩を落とす少女に、いつの間にか壁際で見守っていた白い長衣の女が声をかけた。
「アザリア様!」
アザリアと呼ばれた女は少女を招いた。上背のある身体に長衣を着こなした女の姿勢には、優美でありながら居ずまいを正させずにはおかぬ強さがあった。しかしその灰色の目の光は決して人を威圧するものではなかった。
アザリアはリアに椅子をすすめ、自らも真向かいに腰をおろした。
「あなたには力はあるのよ、リア。四大元素に働きかけ使役するだけの魔力と技能はね。でも心がためらっているわ」
アザリアは言葉を切って、リアを見つめた。
「できないのね、やはり。魔物たちをただ憎むことは」
少女はこわばった顔で師を見上げた。
「魔物たちが敵なのはわかっています。父も魔物との戦いで命を落としました。でも!」
リアは両耳を押さえ、小さく叫んだ。
「あのときの怪物の断末魔が耳を離れないんです。命への執着の魂切るような! 私が殺した……」
アザリアはため息をついた。
「あなたの素質の中で最高なのがよりによって感応力だなんて。そんなものがなければどれほど楽でしょうに」
彼女はリアの肩にそっと手を置いた。
「でも、あなたはアルデガンに必要なのよ。あなたほどの素質に恵まれた者の、つらくてもそれが勤めなのよ」
アザリアのまなざしが、ふと宙に向けられた。
「誰にでも代わりができることではないわ」
リアは知っていた。名付け親でもある師の豊かな亜麻色の髪のかげにむごい傷がかくれているのを。若いころ師は闘いのさなかに瀕死の重傷を負い、高位の呪文に必要な集中は死をもたらすと宣告された。以来アザリアは前線を退き、若い術者の育成に専念してきたのだ。
だが、その中の少なからぬ若者たちが絶え間ない魔物との消耗戦の犠牲になっていた。戦士であれ術者であれ勝ち残る力を持つ者にしか果たすことのできない務め、それが彼らに課された過酷な義務だった。
「意志の力がすべてなのよ」師の声にリアは我に返った。
「混沌を作りだすことさえできれば、あとはあなたの意志の力でどんなことでもできるの。僧侶たちの<奇跡>だって彼らは神の御業というけれど、ゆるぎない信念に支えられた魔法ともいえるのだから。現に」
アザリアの視線がふたたび彼方に向けられた。
「二十年前、私は一人の火術師の信じられない力を見たことがあるわ」
アザリアは仲間たちと焼けこげた洞窟を駆けた。火術師の進んだ道はまちがえようがなかった。そこかしこに犬のような顔のコボルトや巨躯のオーガなどがなかば炭化した骸をさらしていた。アザリアたちは煙に咳込みつつ走った。
彼らは下層に達しようとしていた。魔物たちの死体は驚くべき数だった。ラルダが吸血鬼にさらわれたとの知らせがあの痩身の火術師から信じ難い破壊力を引き出したのだ。だがとっくに限界に達しているはずだ。しかもこのあたりには炎に耐性のある魔物もいる。
突然前方が明るくなった。ついで地鳴りのような爆発音がとどろいた。
「あそこだ!」
誰が叫んだかに気づくより早く、アザリアは転移の呪文を唱えきった。
視界がひらけた瞬間アザリアの目に飛び込んだのは、消耗しつくしてくずおれる火術師と焼けただれつつもなお荒れ狂う巨人の姿だった。巨人は倒れゆく長衣の若者に焼けた大岩のごとき拳を振り上げた。呪文はもう間に合わない!
「ガラリアン!」
アザリアは叫び身を投げ出した。苦しまぎれの、しかし巨大な一撃が二人をかすめ、虫けらのように岩壁へ吹き飛ばした。
「私の意識が戻ったとき、ガラリアンは姿を消したあとだった。左目を失ったということだったわ」
アザリアの目がリアに向いた。
「彼の場合は想い人が洞窟で消息を絶ったことがあれだけの力を引き出すことになった。あなたも自分が戦う意味を見つけさえすれば力を発揮できるのよ。あなた自身が生き残るためでもあり、素質の劣る者を死地から救うためでもあるのよ」
そう語る師の顔に苦渋の色が浮かんでいるのをリアは見た。かつては非凡な魔術師であったこの女性がいかに自らの無力ゆえに救えなかった人々のことで苦しみ続けてきたか、手に取るように心に流れ込んできた。少女は思わず胸を押さえた。あたかも疼く古傷を押さえるかのごとく。
それが感応力の発露、あのとき魔物の断末魔を感じてしまった力だった。でもそれは相手の思考を読みとるというより、感情の動きを感じ取るものだった。だから予想できなかったのだ。続く師の言葉がいかなるものかまでは。
「さきほど大司教閣下から旅に出るよう命じられたわ」
驚いて見上げたリアを、アザリアはまっすぐ見つめていた。
「魔物たちがこの地に封じられて年月がたつうちに諸国からの援助が途絶えがちになってきているのは知っているわね。アルデガンへの物資の援助や人材の派遣は今ではこの地に接する北部地方に限られ、私たちはすっかり守勢にまわって洞窟の掃討どころか洞門を守るのがやっとという状況になっている」
リアは頷いた。父もまた洞門を守る闘いで部下を庇い命を落としたのだ。
「西部地域の内乱は収まることを知らず、南部にも不穏な動きがあるわ。このままでは遠からずアルデガンは破られてしまう。大司教閣下は諸国の状況を見てこいと、そしてアルデガンに、ひいては私たち人間すべてに危機が迫っていることを訴えるようにとおっしゃったのよ」
アザリアは教え子の手を取った。
「いっしょに来なさい、リア。私たちが守っているものが何かを知るために。あなたならその真実から、自分が戦う意味をきっと見い出せるはずだから」
<第3章:洞門>
洞門番になって一刻もせぬうちに、アラードたちはコボルトの襲撃を迎え撃った。
亜人と称されるコボルトは犬に似た顔を除けば小柄な人間のように見え、粗末な胴着や蛮刀を作ることもできた。豚に似たオークともども人間族にとっては生活の場における厄介な競争相手であり、武装が貧弱な小さな村などは滅ぼされることさえあった。しかしここアルデガンではごく最近まで、訓練を終えたての新米たちにも組しやすい相手と見なされていた魔物だった。
コボルトの一頭の突進にアラードはまっこうから立ち向かい、錆びかけた蛮刀の力任せの一撃を剣で受けた。だがほぼ同じ体格の敵の一撃には思いがけぬ勢いがあった。反射的に体をかわすアラードを蛮刀の切っ先がかすめた。そのとき、コボルトの動きが一瞬止まった。隙を見せた相手に二度斬りつけると亜人は倒れ、そのまま動かなくなった。
アラードは周囲を見回した。そこは洞窟の前に広がる砂地だった。正面の洞窟から城壁で三方を囲まれた砂地に攻め込んできた敵の一群は、待ち受けた魔術師たちの呪文にあえなく眠らされ、そのまま戦士たちに斬り伏せられていた。絵に描いたような完勝だった。初陣での圧勝に高ぶる気持ちを抑えきれず、若き戦士はこの戦いを指揮した青年魔術師のもとへと駆け寄った。
足音に振り向いた魔術師ケレスは、砂地を駆けてくるまだ少年といえそうな姿を認めた。さっきコボルトに押されていた赤毛の剣士だ。礼でもいいに来たかとの思いはその輝くばかりの笑顔に打ち消された。呪文の援護に若者が気づいていないのがあまりに明らかだったから。
「他愛のないものですね」
息を弾ませていうその姿に、相手が初陣だったことをケレスは思い出した。ならば周囲がまだ見えなくて当然だ。はやる気持ちに水を差しても益はないと判断し、彼は赤毛の剣士に慎重に応えた。
「地の利がこちらにあるからね」
少年のような剣士は頷くなり、魔法にかかった亜人にとどめをさす仲間たちのところへ走り去った。自分の言葉が素通りしたのに苦笑しつつ、ケレスはボルドフの言葉を思い出した。剣だけは速いが筋力は足りず周りもまだ見えん奴だ。それでも欠けた穴を埋めるために送り出せるのはこいつしかおらん。すまんが面倒をみてやってくれと配属を告げた戦士隊長は頭を下げたのだ。
それでも援護すれば敵を倒せる以上、貴重な戦力であることにかわりはない。そんな段階に達していない者がいまや大部分なのだから。とはいえ自分たちも人のことをいえた義理ではないと、魔術師の青年は心中ひそかに自嘲した。十分な威力の攻撃呪文に未だ届かず眠りや目潰しの援護呪文で勝機を稼ぐのがせいぜいの自分たち。だからこそ亜人の相手がやっとの新米戦士たちの援護に徹しているのが不本意ながら現状なのだ。
けれどそれは大事な任務だ。しかもその重要性は月日とともにいや増すばかり。人間と亜人の力がせめぎ合うなら勝敗を決するのは数の力。だが外部からの人的支援を失った人間側は、もはや数の上でも劣勢を隠せなくなりつつある。だからこそ新米たちを無駄死にさせずに必要な実戦経験を積ませなければならず、そのためにも直接敵と切り結ぶ戦士が容易に持ち得ぬ全体を見る目を養うことが魔術師たる者には喫緊の使命なのだから。そう思ったときアザリアの、敬愛する師の顔が脳裏に浮かんだ。単に魔術系呪文の全てを自在に使いこなせたのみならず、同行したパーティから一人の死者も出したことがなかった至高の守り手。魔力だけなら勝る者はいた。無謀にも単身洞窟に挑んだかの火術師がいい例だ。だが師のなし遂げたことはガラリアンにはもちろん、現存するいかなる術者もなしえなかったことなのだ。この城塞都市の最高指導者ゴルツさえも自分にはできなかったことだと、かつてアザリアを称える中で公言したというのだから。その師の導きを受ける中、いつもいわれる言葉がある。魔術の修得は資質に左右されざるをえないが、全体を見る目は修練で磨き、極められる。それが仲間の命のみならず、ひいては人の世の命運をも左右するのを忘れないでと。そう語るときの師から痛いほど伝わる思い、託されるものの重みを自分たちは心に刻み、決して犠牲を出さぬとの誓いを誰もが新たにしてきたのだ。
新米戦士たちは当分昼の警護に専従するが、自分たちは今夜も当番だ。このところ夜は敵の数がとみに増えている。休めるうちに皆を休ませなければとケレスは見習い魔術師たちを呼び集め、交代するため砂地に降りてきた次の班のリーダーに状況を引継ぐのだった。
<第4章:路上>
夜番の者と交代し宿舎に戻ってきた時もなおアラードの昂揚は続いていた。だからリアに出会うなり話しかけた。相手の様子がいつもと違うことにも気づかずに。
「聞いてくれ、リア。洞門番になったんだ!」
「……よかったわね、アラード」
沈んだ声に、ようやくアラードはなにかが変だと悟った。
「どうかしたのかい? リア」
「私、旅に出ることになったの」
予想もしなかった言葉を聞いたアラードの驚きは、だが彼女から詳しい話を聞くうちに寂しさよりむしろ安堵の勝る気持ちへと変わっていった。幼なじみだった二人はそれぞれが訓練を受けるようになってからも互いに励ましあってきたが、アラード自身はリアに魔物と戦ってほしくなかった。だからリアが一時的であれ旅に出れば、少なくともその間は魔物に食い殺されることはないはずだと思った。少年のような剣士は胸を突かれた。己が安堵のあまりの大きさに。
「アザリア様がいっしょなら心配ないさ。きっとすべてうまくいくよ」
そう励ましつつアラードは思い出していた。リアの父ダンカンのことを。あのときかいま見たその胸中を。
----------
「ほんとに単純な奴だな、おまえは」
なぜそんなことをいわれたのか思い出すより早く、だが苦笑を浮かべたダンカンの顔に酒でも覆い隠せぬ疲労の色が窺えたのがありありと瞼に浮かんできて、おかげでアラードは思い出した。疲れているのかと訊ねたことでそう返されたのだったと。
「だがおまえが裏表なく接してくれるおかげで、リアはずいぶん救われてる。心を読める相手にそうしてくれる奴ばかりじゃないからな。わかってるか? 俺も感謝してるんだぞ?」
まあ座れといわれ、アラードは自分の皿を隣に置いた。夕方の酒場は活気と喧噪に満ちていたが、からかわれたのではと向けた疑いのまなざしの先で、だが中背の戦士の纏う翳りは薄らぐ気配さえないように見えた。やがてまだ酒の残るジョッキを置くと、ダンカンは料理に手をつけるでもなく机の上に視線を落とした。そのまま動かぬ相手の金髪が、灯りのせいか妙に白っぽく色あせて見えた。見つめる赤毛の若者の耳に呟く声が聞こえた。歳などとりたくないものだなと。
「前にできたはずのことができなくなる。届いたはずの剣が届かず、救えたはずの奴が救えない。こんなことを感じるようになるまで、俺ごときが生き残るはずじゃなかったのに」「そんな! あなたは立派な」
古傷だらけの手が遮った。
「誰もが限界まで頑張っているここでは、最後は素質の差がものをいう。俺はこの程度だったのさ。エレーナだってそうだった。傑出した術者とまではいえなかった」
リアの母の名を出されてもアラードには応えようがなかった。エレーナがリアを産んだことで亡くなったとき、彼はまだ一歳になるかどうかだったから。
「なのになぜ、そんな俺たちからリアは生まれた! 身に過ぎた魔力なぞ持ったんだ! 虫も殺せぬどころか心寄せずにいられぬ娘なんだぞ!」「こ、声が大きすぎますよっ」
あわてて止めたアラードだったが、相手の言葉を否定する気は毛頭なかった。自分より先に実戦に出たリアが戦えなくなったと知って以来、彼もまた彼女の戦いは自殺行為と信じていたから。そうと知ってか知らずか、ダンカンの顔が縋りつく赤毛の若者に向けられた。
懊悩の翳りに染まっていた、リアと同じ空色の目が。
「俺の代で終わらせたかった。そう心に誓っていたんだ。なのに状況が悪くなるばかりのこんな時に、俺は衰えてゆくのか。誰も救えず、死地に赴く娘を止めることもできずに……っ」
どう応じればいいかわからぬままアラードが見つめていると、ダンカンはジョッキを一気にあおり、立ち上がった。
「……俺は帰る。寄宿舎にはおまえ一人でいってくれ」
「なんですって? 二人で面会にいく約束じゃないですか」
「こんな状態で会っても心配させるだけだ」
「そんな! リアがあなたを待ってるのに!」
だがいかなる説得も懇願も相手の翳りを払うに至れず、ついに赤毛の若者は唇を噛み呟いた。
「リアにどう話せというんです……」
「ありのまま伝えてくれ。初めてのことでもないからな。それにおまえの嘘じゃリアでなくてもすぐバレる」
古傷だらけの手が、料理の皿を若者の前に押しやった。
「頼まれ賃と思って食え。ボルドフにいつもいわれてるだろう、とにかくガタイを養えと。奴にも当てにされてるんだぞ」
「次は、来週はいっしょに来てくださいよ。リアにもそういっておきますからね!」
「……ああ、それでいい」
去りゆくその背にアラードは思った。これでいいはずがない。来週は絶対リアのもとへ連れていこう、引きずってでもそうしなければ! と。
だがそれから三日後、夜番に出ていたダンカンは部下を敵から庇って死んだ。
----------
聞こえてきた子らの祈りが、寄宿舎の前の若き剣士を現実へと引き戻した。鳶色のその目が建物を見上げる少女の横顔に焦点を結んだ。
懊悩の翳りに満ちていた。父親と同じ空色の瞳が。
だがアラードは、そんなリアの胸中を察することができなかった。寄宿舎から聞こえる幼子らのか細く不安げな祈りを背景に、見納めとなった父親と同じ目をした幼なじみの華奢な少女。その符合の不吉さが、赤毛の若者にそれだけの余裕を許さなかったのだ。胸に焼きつく姿のその不吉さがかき立てる恐れに彼は抗い、はね返さんと一途に念じた。なにがなんでもリアを守る、自分が守らねばならないのだ! と。
それが自分たちにもたらす事態も、まして魂の奥底に刻まれたその姿が歳月の果てに遙か彼方で甦る日がくることも、神ならぬ身では知るすべもないままに。
<第5章:洞門>
夜空を閃光が切り裂き砂地の上に無数の影を焼き付けた。
コボルトやオークなどの大群の急襲だった。倍する数の素早く夜目がきく敵に、若く経験不足の戦士たちは押されていた。形勢不利と見て取ったケレスの指示で魔術師たちが放った目くらましにより戦士たちは辛くも窮地を逃れ、中には敵に反撃できた者もいたが、誰もが数に勝る敵襲に手傷を負っていた。
「落ち着け! 深追いするな!」正面のオークを斬り倒しながらボルドフが叫んだ。すでに十頭以上の亜人を倒していたが、魔物の数は多く勢いは全く減じなかった。乱戦が続けば犠牲が出る、左のコボルトの胴を薙ぎ右のオークの頭を割りつつ巨躯の戦士は焦ったが、引きつけた敵が多すぎて囲みは容易に破れなかった。恩義あったダンカンの最期が一瞬脳裏をかすめた。
その時再び閃光がほとばしり、ついに砂地全体が真昼とまがう光に満たされた。援護の魔術師たちがいっせいに明かりの呪文を唱えたのだ。目つぶしや敵を眠らせるのがやっとの術者たちを、だがケレスは一糸乱れぬ統率により自在に駆使していた。彼らは乱戦に巻き込まれぬよう距離を置きつつも味方の背後、敵の正面へと常に回り込み、それぞれがペアとなる戦士の戦いぶりを注視しつつ敵を牽制していた。そんな仲間たちにケレスは絶好のタイミングで指示を出したのだ。敵が浮き足立ち洞窟へ逃げ込むものも出始めた隙に、戦士たちはなんとか陣形を立て直した。
「深追いするな、追い返せ!」ボルドフもついに囲みを破り、脅えた亜人たちを蹴散らした。若者たちは気勢をあげ、魔物たちは総崩れとなり敗走した。戦士たちは陣形を組んだまま亜人たちを洞窟へ追い込んだ。
だがボルドフが若者たちに近づき引き上げを指示しかけたその瞬間、咆哮とともに洞窟から黒い影が躍り出た。
大柄な獅子とも見まがう怪物だった。いや、胴体は獅子そのものだった。だが、その背には分厚い皮におおわれた翼をもち、尾の先には毒々しい汁に濡れた太い刺があった。にもかかわらず、その顔は人間に似ていた。その口が大きく裂けると二列に並んだ牙がむき出された。悪夢のような怪物は再び吠え、乱れる木霊が山肌と三方の石壁を揺るがせた。
「マンティコアだ、下がれ!」ボルドフは怒鳴った。だが魔獣は若者たちの只中に踊り込んだ。
たちまち一人が喉笛を噛み裂かれ、二人が翼でなぎ倒され鋭い爪で引き裂かれた。仲間を助けようと斬りつけた若者の脇腹を毒針がえぐった。
ボルドフは浮き足立つ戦士たちをかき分けて魔獣に対峙した。血まみれの牙をむき出し威嚇する怪物に、ボルドフは盾を掲げて間合いをとった。
しばし両者は睨みあった。
怪物の油断なさにボルドフはあえて盾をわずかに下げて右脇に隙を作り攻撃を誘った。跳躍した魔獣の脇腹への突撃を巨躯の戦士は盾でいなしつつ剣を大きく左に振るった。頭を襲った猛毒の尾が斬り飛ばされた。
おぞましいほど人間に似た声でマンティコアはわめき、手負いの魔獣は捨て身の体当たりにでたが、ボルドフは突進する怪物の顔面に全体重を乗せた剛剣を振り下ろした。巨大な一撃が醜悪な人面から分厚い胴の前半分までざっくり断ち割った。
戦士たちは魔獣に駆け寄り、まだ痙攣している骸に次々と剣を突き立てた。だがボルドフは見て取っていた。そんな戦士たちの隠しようもない怯えを、そしてケレスを中心に立ち尽くす魔術師たちの受けた衝撃を。やっと見習いの域を脱しつつあった彼らは夜番を担当できるまでになったこの班の戦士たちと訓練を重ね、徹底的に連携を強化してきた。だからこそ二倍もの亜人たちの夜襲にも持ちこたえることができたのだ。それら全てをただ一頭の魔獣は一瞬にして打ち砕いた。四人もの戦士の死はアルデガンにとってもちろん大きな打撃だが、生き延びた者たちの受けた衝撃もそれを何倍にも増幅しかねぬものだった。覆せぬ劣勢に悲壮な思いで抗いながら血の滲む努力で築き上げてきたものが、ただの一撃で崩れ去ったのだから。
しかも事態は、若者たちが知るすべもない恐るべき事柄さえも暗示していた。異形としか呼び得ぬ姿に恐るべき破壊力を秘めたこの魔獣は、ボルドフにだけは未知の存在ではなかった。かつてまだ洞窟への討伐が行われていた時代、中層付近で何度も戦った相手だった。尊師アールダの結界は人間とかけ離れた力を持つ魔物であるほど強く作用するため、数で押すだけの亜人たちが最も浅い層に出現し地上まで侵攻してくる一方、より深い層の強力で危険な怪物たちは本来ここまで上がってこれぬはずなのだ。
「俺は報告にゆかねばならん。詰め所に待機中の全ての班を呼び出せ。俺が戻るまで総員で守りを固めろ!」
馬に飛び乗り闇を駆ける戦士隊長の行く手から幼子たちの不安げな祈りが聞こえてきた。やがて寄宿舎が、その後ろにそびえる寺院が視界の中に黒々と浮かび上がってきた。
Wizardryの思い出に。
<第1章:プロローグ>
暗黒に閉ざされた大地を、滝のような雨が打ちすえていた。
ごうごうたる轟きの中、男は激しく背後を振り仰いだ。都市を取り巻く巨大な城壁がしぶきにつつまれているのが、暗闇の中にかろうじて認められた。
若者の顔が歪んだ。それは炎の紋をあしらったローブに叩きつける氷雨のためでも、えぐられ焼けただれた左目の痛みのためでさえなかった。今逃れでた城塞都市への、その地下に封じられた数多の怪物たちへの、なによりそれらを越え得ぬ己が無力さへの限りなき憎悪の顕れであった。
彼は呪った。たとえ何年かかろうと、命を捨てることになろうとも、この地を焼き滅ぼす秘術をあみださずにおかぬと。だが、彼は自覚しえなかった。右目にたぎる光にいまや狂気が芽吹いていることを。巨大な打撃に光を永遠に失った左目以上に、人間としての己が決定的に損なわれていることを!
「ラァルダーーぁアァーーっ!」
若き火術師の叫びは、咆哮は、だが轟く豪雨の響きに呑まれ、誰の耳にも届くことはなかった。
「封魔の城塞」の二つ名を持つ城塞都市アルデガンの建立は、人間と魔物との抗争史における一つの時代の幕開けであった。
第三暗黒期にエルリア大陸北部の洞窟へ幾多の魔物たちを封じた尊師アールダは、巨大な力を持つ僧ではあったが定命の人間であることに変わりはなく、大陸各地から魔物を洞窟へ追い込んだとき、その命はもはや尽きつつあった。そのためアールダは魔物たちを封じた洞窟の真上に城塞都市を築き優れた戦士や連達の術者たちを定住させることで、魔物の地上への侵略を永く防ごうとしたのである。
だがそれからわずか二百年後、人間族の力の結集だったはずのこの「封魔の城塞」は深い翳りに覆われようとしていた。
そして、さらに二十年後……。
<第2章:訓練所>
激しい気合いの声が巨大な城壁にこだました。朝霧を断つ若者の一撃を大男の木刀がまっこうから受けた。
赤毛の若者はすばやく身を引き、隙なく身構えたまま大男と相対した。細身だが鍛えられた体に闘気をみなぎらせ、鳶色の目で相手を見すえるその姿には巣立ちをむかえた鷹にも似たまっすぐな覇気が満ちていた。
若者の気迫を正面から浴びながら、だが大男の構えには小ゆるぎもなかった。白いものがめだつ剛毛と赤銅色の巨体を覆う無数の傷跡がくぐり抜けた修羅場を窺わせているが、灰色熊のごときその姿に老いの影はなく、重く、堅く立ちはだかっていた。
「まだまだっ!」
掛け声とともに若者がさらに数度、角度をかえて師を襲った。真剣とまがう音をたてて二つの木刀が噛み合った。
「よし」大男の口元がわずかにゆるんだ。
「腕をあげたな。アラード」
精悍な若者の顔が少年のように輝いた。
「光栄です。ボルドフ隊長」
ボルドフは構えを解いた。
「おまえの剣は訓練生の誰よりも速い。さらに磨くがよい。破壊力は体格とともに伸びてこよう。これからは実戦でカンをやしなうことだ」
アラードの息がはずんだ。
「では、私を!」
「洞門番に登用する。午後からの班だ。昼食後に詰所へゆけ」
ボルドフは表情を引き締め、つけ加えた。
「生き延びろ、アラード」
挨拶もそこそこにアラードは訓練所を出た。胸のたかぶりは抑えようもなかった。長く厳しい訓練をおえた誇りと自信がきたる戦いへの闘志となって満ちていた。
だが、見おくるボルドフの顔は厳しかった。アラードの天分がいかに非凡であれ、怪物との戦いに勝ち残るためには彼にまだ備わっていない破壊力がどれほど重要かを知り抜いていたからだ。開いたままの戸口を見すえるその目には、育ちきらぬ戦士さえも消耗戦へ投入せねばならぬ現状への憤りが黒々と燃えていた。
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澄んだ少女の声が複雑かつ精妙な韻律の言葉を、信じ難いなめらかさで紡いだ。
華奢な色白の少女だった。淡い金髪を後頭部で束ね,簡素な胴着を着たほっそりした姿は、かよわい印象さえ与えかねないものだった。だがその呪文は石壁で囲まれた大広間の空間に作用し、大きな力を秘めた特殊な<場>をつくりだした。唱えた者の意のままに、いかようにも状態を変えうる小規模なカオスを。
しかし、それはいかなる形も取れぬまま突如として揺らぎ、消滅した。少女の空色の瞳に落胆の影がおちた。
「集中できないようね、リア」肩を落とす少女に、いつの間にか壁際で見守っていた白い長衣の女が声をかけた。
「アザリア様!」
アザリアと呼ばれた女は少女を招いた。上背のある身体に長衣を着こなした女の姿勢には、優美でありながら居ずまいを正させずにはおかぬ強さがあった。しかしその灰色の目の光は決して人を威圧するものではなかった。
アザリアはリアに椅子をすすめ、自らも真向かいに腰をおろした。
「あなたには力はあるのよ、リア。四大元素に働きかけ使役するだけの魔力と技能はね。でも心がためらっているわ」
アザリアは言葉を切って、リアを見つめた。
「できないのね、やはり。魔物たちをただ憎むことは」
少女はこわばった顔で師を見上げた。
「魔物たちが敵なのはわかっています。父も魔物との戦いで命を落としました。でも!」
リアは両耳を押さえ、小さく叫んだ。
「あのときの怪物の断末魔が耳を離れないんです。命への執着の魂切るような! 私が殺した……」
アザリアはため息をついた。
「あなたの素質の中で最高なのがよりによって感応力だなんて。そんなものがなければどれほど楽でしょうに」
彼女はリアの肩にそっと手を置いた。
「でも、あなたはアルデガンに必要なのよ。あなたほどの素質に恵まれた者の、つらくてもそれが勤めなのよ」
アザリアのまなざしが、ふと宙に向けられた。
「誰にでも代わりができることではないわ」
リアは知っていた。名付け親でもある師の豊かな亜麻色の髪のかげにむごい傷がかくれているのを。若いころ師は闘いのさなかに瀕死の重傷を負い、高位の呪文に必要な集中は死をもたらすと宣告された。以来アザリアは前線を退き、若い術者の育成に専念してきたのだ。
だが、その中の少なからぬ若者たちが絶え間ない魔物との消耗戦の犠牲になっていた。戦士であれ術者であれ勝ち残る力を持つ者にしか果たすことのできない務め、それが彼らに課された過酷な義務だった。
「意志の力がすべてなのよ」師の声にリアは我に返った。
「混沌を作りだすことさえできれば、あとはあなたの意志の力でどんなことでもできるの。僧侶たちの<奇跡>だって彼らは神の御業というけれど、ゆるぎない信念に支えられた魔法ともいえるのだから。現に」
アザリアの視線がふたたび彼方に向けられた。
「二十年前、私は一人の火術師の信じられない力を見たことがあるわ」
アザリアは仲間たちと焼けこげた洞窟を駆けた。火術師の進んだ道はまちがえようがなかった。そこかしこに犬のような顔のコボルトや巨躯のオーガなどがなかば炭化した骸をさらしていた。アザリアたちは煙に咳込みつつ走った。
彼らは下層に達しようとしていた。魔物たちの死体は驚くべき数だった。ラルダが吸血鬼にさらわれたとの知らせがあの痩身の火術師から信じ難い破壊力を引き出したのだ。だがとっくに限界に達しているはずだ。しかもこのあたりには炎に耐性のある魔物もいる。
突然前方が明るくなった。ついで地鳴りのような爆発音がとどろいた。
「あそこだ!」
誰が叫んだかに気づくより早く、アザリアは転移の呪文を唱えきった。
視界がひらけた瞬間アザリアの目に飛び込んだのは、消耗しつくしてくずおれる火術師と焼けただれつつもなお荒れ狂う巨人の姿だった。巨人は倒れゆく長衣の若者に焼けた大岩のごとき拳を振り上げた。呪文はもう間に合わない!
「ガラリアン!」
アザリアは叫び身を投げ出した。苦しまぎれの、しかし巨大な一撃が二人をかすめ、虫けらのように岩壁へ吹き飛ばした。
「私の意識が戻ったとき、ガラリアンは姿を消したあとだった。左目を失ったということだったわ」
アザリアの目がリアに向いた。
「彼の場合は想い人が洞窟で消息を絶ったことがあれだけの力を引き出すことになった。あなたも自分が戦う意味を見つけさえすれば力を発揮できるのよ。あなた自身が生き残るためでもあり、素質の劣る者を死地から救うためでもあるのよ」
そう語る師の顔に苦渋の色が浮かんでいるのをリアは見た。かつては非凡な魔術師であったこの女性がいかに自らの無力ゆえに救えなかった人々のことで苦しみ続けてきたか、手に取るように心に流れ込んできた。少女は思わず胸を押さえた。あたかも疼く古傷を押さえるかのごとく。
それが感応力の発露、あのとき魔物の断末魔を感じてしまった力だった。でもそれは相手の思考を読みとるというより、感情の動きを感じ取るものだった。だから予想できなかったのだ。続く師の言葉がいかなるものかまでは。
「さきほど大司教閣下から旅に出るよう命じられたわ」
驚いて見上げたリアを、アザリアはまっすぐ見つめていた。
「魔物たちがこの地に封じられて年月がたつうちに諸国からの援助が途絶えがちになってきているのは知っているわね。アルデガンへの物資の援助や人材の派遣は今ではこの地に接する北部地方に限られ、私たちはすっかり守勢にまわって洞窟の掃討どころか洞門を守るのがやっとという状況になっている」
リアは頷いた。父もまた洞門を守る闘いで部下を庇い命を落としたのだ。
「西部地域の内乱は収まることを知らず、南部にも不穏な動きがあるわ。このままでは遠からずアルデガンは破られてしまう。大司教閣下は諸国の状況を見てこいと、そしてアルデガンに、ひいては私たち人間すべてに危機が迫っていることを訴えるようにとおっしゃったのよ」
アザリアは教え子の手を取った。
「いっしょに来なさい、リア。私たちが守っているものが何かを知るために。あなたならその真実から、自分が戦う意味をきっと見い出せるはずだから」
<第3章:洞門>
洞門番になって一刻もせぬうちに、アラードたちはコボルトの襲撃を迎え撃った。
亜人と称されるコボルトは犬に似た顔を除けば小柄な人間のように見え、粗末な胴着や蛮刀を作ることもできた。豚に似たオークともども人間族にとっては生活の場における厄介な競争相手であり、武装が貧弱な小さな村などは滅ぼされることさえあった。しかしここアルデガンではごく最近まで、訓練を終えたての新米たちにも組しやすい相手と見なされていた魔物だった。
コボルトの一頭の突進にアラードはまっこうから立ち向かい、錆びかけた蛮刀の力任せの一撃を剣で受けた。だがほぼ同じ体格の敵の一撃には思いがけぬ勢いがあった。反射的に体をかわすアラードを蛮刀の切っ先がかすめた。そのとき、コボルトの動きが一瞬止まった。隙を見せた相手に二度斬りつけると亜人は倒れ、そのまま動かなくなった。
アラードは周囲を見回した。そこは洞窟の前に広がる砂地だった。正面の洞窟から城壁で三方を囲まれた砂地に攻め込んできた敵の一群は、待ち受けた魔術師たちの呪文にあえなく眠らされ、そのまま戦士たちに斬り伏せられていた。絵に描いたような完勝だった。初陣での圧勝に高ぶる気持ちを抑えきれず、若き戦士はこの戦いを指揮した青年魔術師のもとへと駆け寄った。
足音に振り向いた魔術師ケレスは、砂地を駆けてくるまだ少年といえそうな姿を認めた。さっきコボルトに押されていた赤毛の剣士だ。礼でもいいに来たかとの思いはその輝くばかりの笑顔に打ち消された。呪文の援護に若者が気づいていないのがあまりに明らかだったから。
「他愛のないものですね」
息を弾ませていうその姿に、相手が初陣だったことをケレスは思い出した。ならば周囲がまだ見えなくて当然だ。はやる気持ちに水を差しても益はないと判断し、彼は赤毛の剣士に慎重に応えた。
「地の利がこちらにあるからね」
少年のような剣士は頷くなり、魔法にかかった亜人にとどめをさす仲間たちのところへ走り去った。自分の言葉が素通りしたのに苦笑しつつ、ケレスはボルドフの言葉を思い出した。剣だけは速いが筋力は足りず周りもまだ見えん奴だ。それでも欠けた穴を埋めるために送り出せるのはこいつしかおらん。すまんが面倒をみてやってくれと配属を告げた戦士隊長は頭を下げたのだ。
それでも援護すれば敵を倒せる以上、貴重な戦力であることにかわりはない。そんな段階に達していない者がいまや大部分なのだから。とはいえ自分たちも人のことをいえた義理ではないと、魔術師の青年は心中ひそかに自嘲した。十分な威力の攻撃呪文に未だ届かず眠りや目潰しの援護呪文で勝機を稼ぐのがせいぜいの自分たち。だからこそ亜人の相手がやっとの新米戦士たちの援護に徹しているのが不本意ながら現状なのだ。
けれどそれは大事な任務だ。しかもその重要性は月日とともにいや増すばかり。人間と亜人の力がせめぎ合うなら勝敗を決するのは数の力。だが外部からの人的支援を失った人間側は、もはや数の上でも劣勢を隠せなくなりつつある。だからこそ新米たちを無駄死にさせずに必要な実戦経験を積ませなければならず、そのためにも直接敵と切り結ぶ戦士が容易に持ち得ぬ全体を見る目を養うことが魔術師たる者には喫緊の使命なのだから。そう思ったときアザリアの、敬愛する師の顔が脳裏に浮かんだ。単に魔術系呪文の全てを自在に使いこなせたのみならず、同行したパーティから一人の死者も出したことがなかった至高の守り手。魔力だけなら勝る者はいた。無謀にも単身洞窟に挑んだかの火術師がいい例だ。だが師のなし遂げたことはガラリアンにはもちろん、現存するいかなる術者もなしえなかったことなのだ。この城塞都市の最高指導者ゴルツさえも自分にはできなかったことだと、かつてアザリアを称える中で公言したというのだから。その師の導きを受ける中、いつもいわれる言葉がある。魔術の修得は資質に左右されざるをえないが、全体を見る目は修練で磨き、極められる。それが仲間の命のみならず、ひいては人の世の命運をも左右するのを忘れないでと。そう語るときの師から痛いほど伝わる思い、託されるものの重みを自分たちは心に刻み、決して犠牲を出さぬとの誓いを誰もが新たにしてきたのだ。
新米戦士たちは当分昼の警護に専従するが、自分たちは今夜も当番だ。このところ夜は敵の数がとみに増えている。休めるうちに皆を休ませなければとケレスは見習い魔術師たちを呼び集め、交代するため砂地に降りてきた次の班のリーダーに状況を引継ぐのだった。
<第4章:路上>
夜番の者と交代し宿舎に戻ってきた時もなおアラードの昂揚は続いていた。だからリアに出会うなり話しかけた。相手の様子がいつもと違うことにも気づかずに。
「聞いてくれ、リア。洞門番になったんだ!」
「……よかったわね、アラード」
沈んだ声に、ようやくアラードはなにかが変だと悟った。
「どうかしたのかい? リア」
「私、旅に出ることになったの」
予想もしなかった言葉を聞いたアラードの驚きは、だが彼女から詳しい話を聞くうちに寂しさよりむしろ安堵の勝る気持ちへと変わっていった。幼なじみだった二人はそれぞれが訓練を受けるようになってからも互いに励ましあってきたが、アラード自身はリアに魔物と戦ってほしくなかった。だからリアが一時的であれ旅に出れば、少なくともその間は魔物に食い殺されることはないはずだと思った。少年のような剣士は胸を突かれた。己が安堵のあまりの大きさに。
「アザリア様がいっしょなら心配ないさ。きっとすべてうまくいくよ」
そう励ましつつアラードは思い出していた。リアの父ダンカンのことを。あのときかいま見たその胸中を。
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「ほんとに単純な奴だな、おまえは」
なぜそんなことをいわれたのか思い出すより早く、だが苦笑を浮かべたダンカンの顔に酒でも覆い隠せぬ疲労の色が窺えたのがありありと瞼に浮かんできて、おかげでアラードは思い出した。疲れているのかと訊ねたことでそう返されたのだったと。
「だがおまえが裏表なく接してくれるおかげで、リアはずいぶん救われてる。心を読める相手にそうしてくれる奴ばかりじゃないからな。わかってるか? 俺も感謝してるんだぞ?」
まあ座れといわれ、アラードは自分の皿を隣に置いた。夕方の酒場は活気と喧噪に満ちていたが、からかわれたのではと向けた疑いのまなざしの先で、だが中背の戦士の纏う翳りは薄らぐ気配さえないように見えた。やがてまだ酒の残るジョッキを置くと、ダンカンは料理に手をつけるでもなく机の上に視線を落とした。そのまま動かぬ相手の金髪が、灯りのせいか妙に白っぽく色あせて見えた。見つめる赤毛の若者の耳に呟く声が聞こえた。歳などとりたくないものだなと。
「前にできたはずのことができなくなる。届いたはずの剣が届かず、救えたはずの奴が救えない。こんなことを感じるようになるまで、俺ごときが生き残るはずじゃなかったのに」「そんな! あなたは立派な」
古傷だらけの手が遮った。
「誰もが限界まで頑張っているここでは、最後は素質の差がものをいう。俺はこの程度だったのさ。エレーナだってそうだった。傑出した術者とまではいえなかった」
リアの母の名を出されてもアラードには応えようがなかった。エレーナがリアを産んだことで亡くなったとき、彼はまだ一歳になるかどうかだったから。
「なのになぜ、そんな俺たちからリアは生まれた! 身に過ぎた魔力なぞ持ったんだ! 虫も殺せぬどころか心寄せずにいられぬ娘なんだぞ!」「こ、声が大きすぎますよっ」
あわてて止めたアラードだったが、相手の言葉を否定する気は毛頭なかった。自分より先に実戦に出たリアが戦えなくなったと知って以来、彼もまた彼女の戦いは自殺行為と信じていたから。そうと知ってか知らずか、ダンカンの顔が縋りつく赤毛の若者に向けられた。
懊悩の翳りに染まっていた、リアと同じ空色の目が。
「俺の代で終わらせたかった。そう心に誓っていたんだ。なのに状況が悪くなるばかりのこんな時に、俺は衰えてゆくのか。誰も救えず、死地に赴く娘を止めることもできずに……っ」
どう応じればいいかわからぬままアラードが見つめていると、ダンカンはジョッキを一気にあおり、立ち上がった。
「……俺は帰る。寄宿舎にはおまえ一人でいってくれ」
「なんですって? 二人で面会にいく約束じゃないですか」
「こんな状態で会っても心配させるだけだ」
「そんな! リアがあなたを待ってるのに!」
だがいかなる説得も懇願も相手の翳りを払うに至れず、ついに赤毛の若者は唇を噛み呟いた。
「リアにどう話せというんです……」
「ありのまま伝えてくれ。初めてのことでもないからな。それにおまえの嘘じゃリアでなくてもすぐバレる」
古傷だらけの手が、料理の皿を若者の前に押しやった。
「頼まれ賃と思って食え。ボルドフにいつもいわれてるだろう、とにかくガタイを養えと。奴にも当てにされてるんだぞ」
「次は、来週はいっしょに来てくださいよ。リアにもそういっておきますからね!」
「……ああ、それでいい」
去りゆくその背にアラードは思った。これでいいはずがない。来週は絶対リアのもとへ連れていこう、引きずってでもそうしなければ! と。
だがそれから三日後、夜番に出ていたダンカンは部下を敵から庇って死んだ。
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聞こえてきた子らの祈りが、寄宿舎の前の若き剣士を現実へと引き戻した。鳶色のその目が建物を見上げる少女の横顔に焦点を結んだ。
懊悩の翳りに満ちていた。父親と同じ空色の瞳が。
だがアラードは、そんなリアの胸中を察することができなかった。寄宿舎から聞こえる幼子らのか細く不安げな祈りを背景に、見納めとなった父親と同じ目をした幼なじみの華奢な少女。その符合の不吉さが、赤毛の若者にそれだけの余裕を許さなかったのだ。胸に焼きつく姿のその不吉さがかき立てる恐れに彼は抗い、はね返さんと一途に念じた。なにがなんでもリアを守る、自分が守らねばならないのだ! と。
それが自分たちにもたらす事態も、まして魂の奥底に刻まれたその姿が歳月の果てに遙か彼方で甦る日がくることも、神ならぬ身では知るすべもないままに。
<第5章:洞門>
夜空を閃光が切り裂き砂地の上に無数の影を焼き付けた。
コボルトやオークなどの大群の急襲だった。倍する数の素早く夜目がきく敵に、若く経験不足の戦士たちは押されていた。形勢不利と見て取ったケレスの指示で魔術師たちが放った目くらましにより戦士たちは辛くも窮地を逃れ、中には敵に反撃できた者もいたが、誰もが数に勝る敵襲に手傷を負っていた。
「落ち着け! 深追いするな!」正面のオークを斬り倒しながらボルドフが叫んだ。すでに十頭以上の亜人を倒していたが、魔物の数は多く勢いは全く減じなかった。乱戦が続けば犠牲が出る、左のコボルトの胴を薙ぎ右のオークの頭を割りつつ巨躯の戦士は焦ったが、引きつけた敵が多すぎて囲みは容易に破れなかった。恩義あったダンカンの最期が一瞬脳裏をかすめた。
その時再び閃光がほとばしり、ついに砂地全体が真昼とまがう光に満たされた。援護の魔術師たちがいっせいに明かりの呪文を唱えたのだ。目つぶしや敵を眠らせるのがやっとの術者たちを、だがケレスは一糸乱れぬ統率により自在に駆使していた。彼らは乱戦に巻き込まれぬよう距離を置きつつも味方の背後、敵の正面へと常に回り込み、それぞれがペアとなる戦士の戦いぶりを注視しつつ敵を牽制していた。そんな仲間たちにケレスは絶好のタイミングで指示を出したのだ。敵が浮き足立ち洞窟へ逃げ込むものも出始めた隙に、戦士たちはなんとか陣形を立て直した。
「深追いするな、追い返せ!」ボルドフもついに囲みを破り、脅えた亜人たちを蹴散らした。若者たちは気勢をあげ、魔物たちは総崩れとなり敗走した。戦士たちは陣形を組んだまま亜人たちを洞窟へ追い込んだ。
だがボルドフが若者たちに近づき引き上げを指示しかけたその瞬間、咆哮とともに洞窟から黒い影が躍り出た。
大柄な獅子とも見まがう怪物だった。いや、胴体は獅子そのものだった。だが、その背には分厚い皮におおわれた翼をもち、尾の先には毒々しい汁に濡れた太い刺があった。にもかかわらず、その顔は人間に似ていた。その口が大きく裂けると二列に並んだ牙がむき出された。悪夢のような怪物は再び吠え、乱れる木霊が山肌と三方の石壁を揺るがせた。
「マンティコアだ、下がれ!」ボルドフは怒鳴った。だが魔獣は若者たちの只中に踊り込んだ。
たちまち一人が喉笛を噛み裂かれ、二人が翼でなぎ倒され鋭い爪で引き裂かれた。仲間を助けようと斬りつけた若者の脇腹を毒針がえぐった。
ボルドフは浮き足立つ戦士たちをかき分けて魔獣に対峙した。血まみれの牙をむき出し威嚇する怪物に、ボルドフは盾を掲げて間合いをとった。
しばし両者は睨みあった。
怪物の油断なさにボルドフはあえて盾をわずかに下げて右脇に隙を作り攻撃を誘った。跳躍した魔獣の脇腹への突撃を巨躯の戦士は盾でいなしつつ剣を大きく左に振るった。頭を襲った猛毒の尾が斬り飛ばされた。
おぞましいほど人間に似た声でマンティコアはわめき、手負いの魔獣は捨て身の体当たりにでたが、ボルドフは突進する怪物の顔面に全体重を乗せた剛剣を振り下ろした。巨大な一撃が醜悪な人面から分厚い胴の前半分までざっくり断ち割った。
戦士たちは魔獣に駆け寄り、まだ痙攣している骸に次々と剣を突き立てた。だがボルドフは見て取っていた。そんな戦士たちの隠しようもない怯えを、そしてケレスを中心に立ち尽くす魔術師たちの受けた衝撃を。やっと見習いの域を脱しつつあった彼らは夜番を担当できるまでになったこの班の戦士たちと訓練を重ね、徹底的に連携を強化してきた。だからこそ二倍もの亜人たちの夜襲にも持ちこたえることができたのだ。それら全てをただ一頭の魔獣は一瞬にして打ち砕いた。四人もの戦士の死はアルデガンにとってもちろん大きな打撃だが、生き延びた者たちの受けた衝撃もそれを何倍にも増幅しかねぬものだった。覆せぬ劣勢に悲壮な思いで抗いながら血の滲む努力で築き上げてきたものが、ただの一撃で崩れ去ったのだから。
しかも事態は、若者たちが知るすべもない恐るべき事柄さえも暗示していた。異形としか呼び得ぬ姿に恐るべき破壊力を秘めたこの魔獣は、ボルドフにだけは未知の存在ではなかった。かつてまだ洞窟への討伐が行われていた時代、中層付近で何度も戦った相手だった。尊師アールダの結界は人間とかけ離れた力を持つ魔物であるほど強く作用するため、数で押すだけの亜人たちが最も浅い層に出現し地上まで侵攻してくる一方、より深い層の強力で危険な怪物たちは本来ここまで上がってこれぬはずなのだ。
「俺は報告にゆかねばならん。詰め所に待機中の全ての班を呼び出せ。俺が戻るまで総員で守りを固めろ!」
馬に飛び乗り闇を駆ける戦士隊長の行く手から幼子たちの不安げな祈りが聞こえてきた。やがて寄宿舎が、その後ろにそびえる寺院が視界の中に黒々と浮かび上がってきた。
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