<第3章:最果ての森>

 風がその森から吹き寄せていた。残照の消えた夜空よりもなお暗い深い森の揺れる梢を風が吹き渡っていた。
 風が吹き梢がざわめく。あたりまえの光景のはずだった。
 しかし風は強い妖気を帯び、ざわめきはそれ自体の法則に従い風とは微妙にずれていた。あたかも樹々が、互いに秘密の言葉を交わしてでもいるかのように。
 頭の後ろで束ねたまっすぐな髪が風の孕む妖気に乱れた。この身と同じ吸血鬼の、けれど桁違いに濃く混じりけのない妖気に。相手は人と吸血鬼との力の差さえ比較にならぬ高みに在るのだ。探ろうと伸ばしていた意識をリアは思わず引っ込めた。身を固くした少女の青い目が、緑がかった常闇の奥から歩み寄らんとする姿を捉えた。
 それが歩み出たその瞬間、たちまち周囲が明るくなった。天頂からの月明かりを受け、大きくうねる金色の髪が緑の闇を圧してまばゆくあでやかに照り映えたのだ。

 見たところはリアよりやや年上の上背のある乙女の姿だった。色の濃い豊かな金髪が丈高き背から腰へと弧を描いていた。浅い紫の長衣に緑の帯を締め紺に染められたマントを羽織った体は、輝く髪とは対照的に月影のごとく夜の闇に溶けていた。
 頭には簡素な作りの、しかし白銀色の冠のようなものを頂いていた。その正面に赤い宝玉がひとつ輝いていた。その冠のせいか昔話に出てくる姫のような姿だとリアは思った。
 そういえば昨夜山道で出会った若者たちは自分のことを闇姫の眷属とかいっていた。この乙女こそが闇姫と彼らが呼ぶ者に違いなかった。
 大きく見開かれた目は緑色で渇きに苦しむ真紅でこそなかったが、訴えに満ちたまなざしだった。なにかを求めてやまぬことが離そうとした意識にいやおうなく届いた。そして小さな赤い唇が動いた。
 だが聞こえたのは、耳にしたこともない言葉だった。
 相手が白い両腕を差し伸べ、またも言葉が発せられた。やはり理解できなかった。けれどそれは、なにかに似ていた。
 だしぬけに思い出された。魔術士の呪文にそっくりだ。けれどこれは呪文ではなく、明らかに呼びかけだった。

 高位の呪文の多くは上古の時代に作られたのよ。上古の言葉が失われた今もなごりがいくらか留められているの。

 もうはるか昔のような遠い声がした。人間だった彼女に魔術の手ほどきをしてくれた師にして名付け親の導きの言葉が。
「では、これはもしかして上古の言葉?」
 ありえない話ではなかった。これだけの妖気を持つ者ならば、どれだけの年数を生きてきたか計り知れないとさえ思えた。だが高位呪文を習得していない少女に、それ以上言葉を解するすべはなかった。
 リアは相手に視線を戻した。腕を下ろし、視線も地面に落ちていた。落胆している様子がうかがえた。けれど相手に掴まれないよう意識を引っ込めたせいで、少女にもそれ以上のことはわからなかった。乙女がこちらを見ていないためリアも心を定められぬまま、ちらちらと相手を盗み見ていた。

 リアは転化後に他の吸血鬼と出会ったことが一度だけあった。直接顔を会わせてではなく意識を介してのことだったが。
 その相手こそリアを牙にかけた者だった。自らを牙にかけた者にあまりにも長く責めなぶられた果てに歪み堕ち、すべての者を呪うしかないところまで追い詰められた者だった。彼女はリアを苦しめるため、牙にかけながらわざと殺さなかった。己が受けた仕打ちをリアにも繰り返さずにいられなかったから。
 リアにとって彼女はまさに魔王だった。自分を直接牙にかけた者の力は凄まじかった。転化してからの二十年、吸血鬼としての支配の理の上に彼女は憎悪と怨念に支えられた凄まじい意志力と果てしない悪意を培っていた。人の心ゆえの呪訴が吸血鬼の力を得て、この世を滅ぼす意志に憑かれた最凶の魔物と化しつつある姿だった。アルデガンの長だった彼女の父に滅ぼされなければ、この大陸はその牙に呪われた者で満ち溢れていたに違いない。
 吸血鬼は吸血鬼を殺せない。たとえ牙にかけた相手でも、どれほど力に差があろうと。
 だからこそ、力ある相手にはうかつに近づけないのだ。もしも支配されれば、待つのはまさに永劫の地獄だから。
 リアを牙にかけた者もその苦悶ゆえ、あれほどまで痛ましくも歪み堕ちたのだ。己の落ちた無限地獄に全ての者を引き込まんと呪わずにいられぬところまで……。

 もちろんそのことは知っていた。身を持って思い知ったはずのことだった。それでもリアは、いつしか相手から目を離すことができなくなっていた。そんな自分に驚きさえも覚えつつ、いまや少女は冠を頂く丈高き乙女をひたすら見つめていた。
 目の前にいるのは自分よりはるかに強大な存在のはずだった。でもそれは、単に年数を経て増した力ゆえのものでしかないようにも見えた。
 憎悪や悪意は感じられず、どこか哀れな印象さえあった。
 うかつに近づける相手ではないはずなのに、放っておけないと思えてならなかった。

 リアは意を決した。
「あなたはだれ?」
 言葉とともに意識を伸ばし、直接心にも呼びかけた。
 相手が顔を上げ、すがるようなまなざしが向けられた。そして思念が返された。
>……わからない。私はだれ? 私はだれだったの?<
「……もしかして、さっきもそういっていたの?」
 相手はうなづいた。
「あなたに会うのは初めてよ。わかるはずがないでしょう?」
 大きな緑の瞳がうるんだ。リアは困惑した。これでは話が続かない。とにかく先の続けられる話をするしかなさそうだった。
「では私からきくわ。あなたは私がだれだかわかる?」
>あなたの、名前?<
「名前じゃないわ。私が何者なのかよ。あなたには私は人間に見える?」
 緑色の目がかすかに光った。
>人間じゃ、ない……<
「そうよ。私は人間じゃない。あなたと同じよ」
 とたんに相手は膝をつき両手で顔を覆って叫んだ。思念だけでなく忘れられた言葉で。
>私は人間だったのよ!<

 おぼろげながら、リアにも事情が呑み込めてきた。
「人間だったことを忘れていた。けれども思い出してしまった。そうなのね?」
 乙女は身を震わせていた。リアより背が高いにもかかわらず、その様子はまるで置き去りにされた子供のようだった。
 確かに置き去りにされたのだ。リアは悟った。記憶のないまま過ごした時の流れの中で乙女に関するすべてのものが消え失せ、彼女はただ一人置き去りにされたのだと。
「人間だったことを思い出したのはいつごろなの?」
>……ずっと、ずっと前<
「それまでは自分を疑問に思わなかったのね?」
 乙女が小さくうなづいた。
「なぜ自分が人間だったとわかったの?」
>花を見たの<
「花を?」
>……夜に咲かない花を人間の家で見たの。昼間に摘まれたまま咲き開いていた。私が知っているはずがない形で<
>なのに私はその花を知っていた。そして思い出した。この身に日の光を浴びながら私はこの花を摘んだことがあったと……<
「……それだけだったの? 思い出せたのは」
 乙女はまたうなづいた。

 どうやら死んで転化した者らしかった。死んでからっぽのまま甦り、人の血を得て転化を終えた者のようだった。そういう者にリアはこれまで出会ったことがなかった。
 転化が進みからっぽのまま甦った者の姿を見たことはあった。動く死体のような状態だった。近づく者に盲目的に牙を剥く恐ろしい姿に、まだ牙を受けたばかりだったリアはあのとき怯えた。自分もそうなると思っただけで心が挫けたほどだった。
 だが死んで転化した者のいったんからっぽになった魂は、意識が目覚めた時点では生まれたてに等しいある意味無垢なものであるらしいことが乙女の話からうかがえた。おそらく彼らは自分がかつて人間だったなどと夢にも思わず、ただ出会う人間を無心に牙にかけたに違いなかった。人間の心を持つゆえの苦しみとも、さらに苦しみゆえの歪みともそれは無縁の境地のはずだった。
 それゆえ今や感じ方が変わっていた。いかに人の目に恐ろしく見えようと、牙にかかり死んで転化する者がからっぽになるのはむしろ自然なのだと、慈悲でさえあるのだと。
 自分のように人間の心を残してしまったり、目の前にいる相手のように記憶の欠片だけを取り戻したりするのは不自然であり、それゆえの苦しみを免れないことなのだと。
 確かに目の前の名もなき乙女は、長い時の果てに凄まじい力を持つにいたった上古の吸血鬼に相違なかった。
 だがその心は、たった一つの記憶を取り戻したばかりに自然に在れなくなっていた。時の流れに置き去りにされた無力な魂が、己が身を見失った不安と無垢でいられぬ哀しみになすすべもなく苛まれているのだ。
 こんな状態でどれほど長い時を過ごしていたのか。哀れとしかいいようがなかった。放っておけば永遠にこの状態から抜け出せないに違いない。
 決して放っておけないとリアは感じた。でも失われた記憶を、相手が望んでやまぬものを与えるすべはなかった。ではどうするのか。なにができるのか。
 答はすぐに見いだせた。けれどリアはためらった。相手が哀れだからこそ、それは容易に決められぬことだったから……。

「……人間だったときのことが知りたいの? そのせいでもっと苦しむかもしれなくても?」
 それを聞いて、乙女がリアを見上げた。
「私は五年前に転化した。自分の意識も記憶も全て残したまま、こんな身に堕ちてしまった」
 リアは乙女の正面に膝をつき、両手でその肩を引き寄せた。
「私はあなたの望みを叶えられない。でも、あなたが自分のことを知ってしまえば感じるかもしれないことなら伝えられる」
 今度はリアの青い目が丈高き乙女を見上げた。
「あなたをもっと苦しめるかもしれない。それでも今の状態からあなたを変えるためにできることはこれだけなのよ。
 でも、望まないなら無理強いしないわ。そんなことが許されるものではないから」
 緑の瞳に脅えが走った。まぶたが固く閉じられた。
 しばしの逡巡を経て、しかし乙女の思念は告げた。
>……もうこのままではいけないと思う。だから、お願い<

 リアは乙女の魂に自分の魂を重ねあわせて感応させた。
 これまでのすべての記憶が相手の中へと流れ始めた。
 ゆっくりと伝えた。
 かみしめるように。



 終わった時、月は大きく傾いていた。
 乙女は呆然と緑の目を見開いていた。
「これが私の過去と今。私は自分のことを忘れなかった。だからこんな道を歩んできたわ……」
>……私が自分のことを覚えていたら、こんなふうに苦しんだというの?<
「同じ道ではなかったかもしれない。でも覚えていたら、あなたも人の目で吸血鬼と化した我が身を見つめるしかなかったはず。私にはあなたが苦しまずにすんだようには思えない」
 リアは立ち上がった。
「いくら覚えていたって人間になんか戻れはしない。ただこんな身のまま在り続けるだけ。それは私もあなたも同じだから」
>それで、あなたは願っているの? いつか滅びたい……と<
「私たちは人間じゃない。けれど吸血鬼として自然にふるまえるわけでもない。不安定な状態がずっと続くばかり。このままでは決して安らぎは得られないのよ。
 しかも私たちは大きすぎる力を持ってしまった。魂一つ歪んだだけで世界のあり方をねじ曲げてしまう力を。こんなに危うい、脆い心を抱いたまま……」
 少女は上古の乙女に目を向けた。
「世界を歪めずにすむ保証なんかどこにもないわ。そうなれば、もう私たちが苦しむだけではすまないもの」

>……いつまでもこう在り続けていてはいけないというのね<
 乙女のまなざしが己の内を見つめていた。
>滅びにしか救いはないと……<
 だがかみしめるような思念がいったとたん、たちまち風が吹き荒れ渦巻いた。風鳴りにざわめく樹々に乙女がはっと面を上げ、うろたえた様子で中空に叫んだ。
>違う、そうじゃない、違うのよ!<
「どうしたの? これはっ!」
 真正面からの激しい風に思わず目をかばったリアが叫んだ。
>森があなたを私に仇なす敵とみたわ!<
 渦巻く風に身を巻かれつつ、乙女が少女を振り返った。
「あなたの、敵?」
>あなたに触れて、私は滅びを願うことを知った。
 だから森はあなたが私を滅ぼすとみなし、あなたから護ろうとしているの!<
「いったいなに? この森は!」
>私を護り続けてきた。渇きからさえ<
「まさか、あなたの妖気を浴び続けて」
>いつしか私と意志をかわすようになった<
「魔性に目覚め逆にあなたを取り込んだの?」
>私に生きろといっている。そうすれば<
「あなたをいつまでも生かしておいて」
>力を得てどこまでも広がってゆけると<
「妖気を糧にこの大陸を覆いつくすまで!」
 乱れ飛ぶ思念と叫びの背後で、樹々のざわめきが一つの響きにまとまり始めた。
>だから、あなたは敵なのだと<
「だめ! それでは世界が! 従わないでっ」
>私を引き離すといってるわ!<
 妖気に満ちた空間に言葉に似た響きが織り上げられた。乙女の話す上古の言葉にそれは似ていた。
 瞬間、響きと妖気が溶け合い魔力が発動した。風に絡められた丈高き姿がかき消えた!
 魔力の余波を放ちつつ、風の渦がほどけて散じた。呆然と立ち尽くすリアのもとに、微かな思念がかろうじて届いた。
>私はあなたを忘れない。でも、森ももうあなたを忘れない。
 あなたが森に近づけば、森はあなたから私を引き離す。
 あなたにはもう会えないわ。けれど決して忘れない……<
 こだまのような思念ははるか彼方に消え失せた。
 すると樹々のざわめきが転じ始めた。敵意と悪意のただ中に、貪欲な響きが滲み出てきた。
「まさか私まで狙うというの?」
 戦慄する少女の前でざわめきが膨れ上がり、触手のごとき風がどっと吹き寄せた。必死でもがき、倒れ込んだまま地を這った。絡む風から、生の魔性の権化と化した昏き森から逃れるべく!


 空がうっすらと白み始め、追いすがる風がようやくやんだ。
 リアは青ざめた顔で振り返った。西の地平にわだかまる、影のごとき魔の森を。
「種族を超えた力は種族の運命と世界の命運を狂わせる……」
 口に出たのは、かつて出会った異世界の魔物の言葉だった。
 その力の源として、強大な妖気と哀しみに染め上げられた魂を併せ持つ上古の乙女はあの森に縛られているのだ。
 乙女の心には世界そのものへの害意などまったくなかった。
 大昔に吸血鬼の牙にかかった哀れな犠牲者にすぎなかった。
 にもかかわらず、彼女の存在自体が森を変貌させたのだ。
 長大な年月をかけてじわじわと、しかし確実に世界を呑み込む巨大な魔物へと……。

「……私たちはただ在るだけで全てをねじ曲げるというの?」
 低いつぶやきに応えるものはなかった。



 リアが戻ると、魔物たちがいっせいに視線を向けた。けれど、なにかが変だった。
 人面の獅子のごとき魔獣が出迎えた。これまで以上に人に似た顔で、表情で。
 思わず少女は立ち止まった。
「……どうしたの?」
 向けられた魔獣の目の奥に、なにかが生まれていた。
 荒ぶる魂の中、それが育ち始めていた。
 形を取ろうとしつつあった。
 やがて哀しみになるはずのものが。
「まさか! そんなっ」リアは叫んだ。
「私の魂に染まったの? こんな心で触れ続けたから?」
 ぞっとして見回した。どの魔物の目も同じだった。
 人間と区別のつかないものになろうとしていた。
 もともとかけ離れていたわけではなかった魂が。

「だめよ! だめっ」少女は悲鳴をあげた。
「離れて! 私のそばにいてはだめ!」
>離レ難イ……<
 人面の獅子のごとき魔獣がぎこちない思念を返した。
「去りなさい! それは自然な姿じゃないわ! ただいたずらに苦しむ、歪んでしまう」
>去レルモノハ去ッタ。去レヌモノバカリガ残ッタ<
 巨人の思念が応じた。
>去リ難イ、己ガ心ノ求メユエニ<

 膝を落としたリアを朝日が照らした。目が見えなくなった。
 魔物たちが身を寄せてきたが、その姿ももう見えなかった。
 ただ己が魂に、彼らのぎこちない魂が寄り添うのを感じた。
 少女は悟った。彼らはもう元に戻ることがないのだと。
「私はなにもかもねじ曲げてしまうの?」
 光に盲いた目から涙が溢れた。
「私はどうすれば、償えばいいの?」
>心ノママ憩イノ地ヲ求メ行ケ<
 皮の翼で日を遮る魔獣が応えた。
>ソコガ我ラノ憩イノ地ナレバ<
 地平線に魔の森の影わだかまる荒野のただなかで、奇妙な絆で結ばれたものどもは戻ることなき旅立ちの夜を待つのだった。
 光を耐え忍ぶべく身を、魂を、ぎこちなく寄り添わせつつ。



                       終
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