<第1章:洞窟上層 その1>
真昼の光を浴び赤毛を風になびかせながら、アラードはリアとゴルツとともに洞門の前の砂地に立っていた。アラードは体格に合わせた軽い鎧、リアは皮で補強された胴着、ゴルツはラーダの紋章が入った長衣に軽い皮の胸当てという着慣れたいでたちだったが、三人ともその上から灰色のマントをはおっていた。それは魔物に見つかりにくくなる隠形の呪文がかけられたものだった。彼らはこれから困難な、ほとんど絶望的な探索に赴こうとしていた。
だが、アラードはいまだに気持ちの整理をつけられずにいた。これまでのなりゆきが何度も心の中をめぐるばかりだった。
あのとき集会所で、祭壇に眠るリアの意識を探ったゴルツは、アルデガンに侵入した吸血鬼が洞窟に戻っていると告げた。
そして驚くべきことに、ゴルツ自身がこれを滅ぼすため洞窟へ赴くといったのだ。
あまりに危険なこの案に多くの者が反対した。とりわけグロスはこれをなんとか翻意させようとした。もしゴルツが斃れることになればアルデガンはどうなるのかと。そのような危険を冒さずとも敵がまたアルデガンへ侵入しようとしたときに水際で倒せばよいではないかと。
「ならぬ! それではアルデガンに住む者すべてを危険にさらすことになる」
ゴルツは譲らなかった。
「洞窟で戦うならわしが斃れたところで犠牲は一人。だが水際で食いとめられずに侵入を許し、出会う者を片端から牙にかけられたらなんとする! たちまちアルデガンそのものが瓦解するではないか」
これには誰も反論できなかった。
「吸血鬼を滅ぼすには解呪の技を使うしかない。しかも居場所を探るには探知の秘術も欠かせぬ。この両方を使うことができる者はわししかおらぬ」
「では、せめて護衛を!」
「護衛が勤まるような者はもはやいくらもおらぬ。誰一人欠かすことのできぬ者ばかりじゃ。それに騒ぎになれば敵に感づかれてしまう。他の魔物とはいっさい戦わずに吸血鬼のもとへ赴くしかない。わしがリアを伴い二人でゆく」
「私もいきます!」
アラードは立ち上がった。
「ならぬ。足手まといじゃ」
いい放つゴルツをアラードは睨みつけた。
「閣下はリアに死ねと宣告したではありませんか。くるなといわれても追いかけていきます!」
「いいかげんにしろ!」
ボルドフが怒鳴った。だがアラードは引かなかった。
「閣下もみなさんもリアのことなど考えていません。だから私は絶対についていきます。誰がなんといおうと!」
ゴルツはアラードを真正面から見すえた。
「リアはすでに覚悟をしておるぞ。そなたも聞いたであろう? もはや我が身のためではないと、他の者が餌食になるのが耐えられないと申していたのを」
そして、祭壇で眠り続けるリアの側へ歩み寄った。
「……まことに不憫ではある。だが吸血鬼の牙を受けた者の命運は尽きたも同然。そのことは本人が誰よりもわかっておる。
その上で、リアは我が身の恐怖と絶望が他の者へ振りかからないように最後まで戦おうといっておるのじゃ。どれほどの覚悟が必要か、そなた想像がつくか?
そなたの出る幕ではない! 覚悟がゆらぐばかりじゃ」
「お待ちください」
アザリアが静かにいった。
「確かにリアは覚悟をしています。でも、親しい者の存在がその支えになることもあるはずです」
アザリアもまた祭壇に歩み寄り、ゴルツに相対した。
「いくら覚悟をしているとはいえまだ十五の娘の身。しかもその身はじわじわと人間でないものに変じ、敵の影響力も増してゆくばかり……。本人にとってどれほど恐ろしいことか、かつて私は思い知らされました。とうとう救うことができなかったアルマの姿に……」
アザリアはリアの顔に痛ましそうな視線を向けたが、ふたたびゴルツに目を向けた。
「アラードは洞窟の中では足手まといにすぎないでしょう。でも彼の存在がリアの魂のぎりぎりの危機を左右するかもしれないという気がします。連れていっていただけませんでしょうか」
ゴルツは長い間アザリアの目を見つめたが、ついに重々しく首肯した。
「……そなたがそれほどいうのなら」
「アザリア様! ありがとうございます……」
アラードは声を弾ませたが、振り向いたアザリアの表情の厳しさに思わず息をのんだ。
「リアを支えるということは、あなたがなにか1つ間違えば逆に苦しめかねないということよ。生やさしいことではないわ」
アザリアは祭壇から離れ、アラードの正面に立った。
「私はとうとうアルマを救えなかった。敵に意識をのっとられて襲いかかる彼女をついにこの手で焼き殺すしかなかった。
あなたも自分の手でリアを殺さなければならなくなるかもしれないのよ。その覚悟はある?」
リアの師であり名付け親でもあるアザリアの言葉にアラードはすぐに答えることができなかった。そんな彼をアザリアはしばし見すえていたが、目を細めるとこういった。
「大司教閣下の命令には従いなさい。絶対よ。いいわね!」
アザリアの言葉は厳しかったが、それでもリアを想う気持ちは痛いほど伝わってきた。だからアラードも納得できた。
だがアザリアが従えというゴルツのことは、どうしても信頼する気になれなかった。リアが目覚めてからゴルツの部屋に二人で呼ばれたときのことを彼はまた思い返した。
<第1章:洞窟上層 その2>
「洞窟に入ればそなたにも敵の気配が感じ取れるようになろう、それもしだいに強く。その意味はわかるな?」ゴルツのその言葉は、アラードにはなんの容赦もないとしか思えなかった。
リアはうなづいた。だがアラードが思ったとおり、その顔から血の気が引いていた。
「敵にとってもそなたの気配が感じやすくなる。単に場所が近くなるだけではなく、そなたの転化が進むからでもある。そなたはやがて敵の所在をおぼろげに感じ取れるようになる。転化が進めば進むほど敵の所在や様子ははっきりとわかるようになろう」
ゴルツの緑色の双眸が鋭い光を帯びた。
「はっきり申しておく。わしの目的はアルデガンを襲った吸血鬼を滅することじゃ。アルデガンを預かるわしが洞窟に赴く以上、それが最優先となる。そなたがどうなるかはあくまで結果じゃ。わかるな?」
「……わかっています」
リアは応えた。色を無くした唇を固く結び、ゴルツの目を正面から見つめて。
だが、アラードは黙っていられなかった。
「あまりにひどいお言葉ではありませんか、閣下! リアのことは二の次だとおっしゃるんですか!」
いいつのるアラードを、ゴルツはじろりと見た。
「いかにも」
ゴルツが立ち上がった。二人は見下ろされる形になった。
「そなたの思いは当然のことではある。だが吸血鬼が相手では、その思いこそが命取りとなりかねぬ。
二人ともアザリアの話を聞いたであろう? 自ら親友であった者を殺めるしかなかったというのを」
二人はうなづいた。
「そもそも吸血鬼は他の魔物とは大きく異なる。他の魔物はつまるところ生き物じゃ。亜人にせよ魔獣にせよ生き物としての理の中にある。結局は生きるために我ら人間を食おうとする」
リアがうなづいていた。魔獣の魂を感じたという身には思い当たる話なのかとアラードは思った。
「だが吸血鬼は生き物の理には収まらぬ存在じゃ。むしろ魂への呪縛が肉体を不死たらしめていると捉えるべきであろう。いくら斬り刻んでも死なず、たとえ炎で焼き尽くしても復活してしまう度を超した不死の力は生命ではなく呪いの範疇にあるもの。ゆえに魂を呪縛する不死の力を砕く解呪の技でしか倒せぬのじゃ」
ゴルツの口調も、そんなリアに言い聞かせるようだった。
「そしてかの恐るべき血への渇望。死ぬことができぬ存在である以上、他の魔物が人の血肉を食らうのとは意味あいが違う。
犠牲者を転化させる力を発揮させるためにこそ与えられた渇きであろう。自らが生き延びるためでなく他の者を自らと同じ身に化生させるために。これまた呪いの範疇にあるとしかいえぬ」
ゴルツの視線がリアからアラードに移された。
「まことに恐るべき呪いじゃ。そしてアルデガンにいる者、特にそなたのような者はとりわけこの呪いの連鎖に陥りやすい」
「どうしてです? なぜ私がそんな呪いに陥りやすいと!」
アラードはゴルツのまなざしが自分に向けられたことに怒りを覚え声を荒げた。だがゴルツは重々しく続けた。
「人を守るため命がけで魔物と戦う。そなたたちはこの地に生まれ、その使命を叩き込まれて育ったはずじゃ。アルデガンの外で人間と戦ったことのある者はいまやほとんどおらぬ。それゆえあからさまに魔物の姿をした相手であれば勇敢に戦える反面、人の姿をした者であれば刃を向けることさえ意識するしないにかかわらず抵抗がある。かなりの手練れでも技が鈍る。
当然じゃ。人と戦うことが使命ではないのだから。守ることを使命とする身であれば、殺す訓練などしてもおらぬのだから。
ましてそれが身近な者の姿をしていれば、昨日まで共に戦った仲間であれば、よほどの覚悟がなければまともに戦えぬ。その力もさりながら吸血鬼はアルデガンの者にとってまことに恐るべき難敵!」
ゴルツはアラードの目を正面から見つめた。
「アザリアほどの者であればこそ友を送ることができたのじゃ。病に伏した己の身代りにさせたという思いに苛まれ、友の恐怖と絶望に寄り添い我がものとして死力を尽くし救おうとしたにもかかわらず力及ばず、全ての希望が潰えた絶望に泣き叫びながらもな……。さもなくば一瞬の迷いを突かれ牙にかかったはず。
アザリアが申したであろう。そなたにリアを殺す覚悟があるかと。アザリアの申すのはそれほどの意味じゃ。そなたにできることではあるまい?」
ゴルツの言葉に、アラードはなにもいえなかった。
だがゴルツの視線が、ふとアラードから離れた。
「いや、それではあまりにそなたに酷か。二十年前でさえそんな者はいくらもおらなんだのだから……」
「だからこそわしは吸血鬼と戦うことも、アルマの事件からはさらわれた者を救いにいくことも禁じた。だが、その直後にまたも吸血鬼にさらわれた者が出た。そして禁じられたにもかかわらずさらわれた者を救おうとして洞窟に単身乗り込んだ者もいた」
「ガラリアン……」
リアのつぶやきにゴルツはうなづいた。
「アザリアから聞いたか。では結果も知っていよう。ガラリアンは凄まじい力で出会う魔物を片端から焼き殺しながら洞窟半ばまで進んだが、結局さらわれた者も吸血鬼も見つけることさえできなかった。あれだけの力をもってしても。
しかも彼を連れ戻すために後を追ったアザリア共々傷を追い、自身はアルデガンを出奔し、アザリアは呪文を唱えれば死ぬ身となった。一人の愚行が二人もの手練れを失わしめた」
「閣下が禁じなければ、協力して助けにいけばなんとかなったかもしれないじゃないですか。閣下は助けにいく者の気持ちなんかどうでもいいんですか? しょせん他人事なんですか?」
一瞬、ゴルツの激しい眼光がアラードを射すくめた。
「他人事と申すか! さらわれたのは我が娘じゃ!」
言葉を失ったアラードを見下ろすゴルツの顔は、とてつもなく厳しかった。
「わしは我が娘の救助を禁じた。被害が増えるのがわかりきっている以上それしかなかった。
アルデガンの長ならば当然のこと。娘であろうと二の次じゃ。今度とて同じこと。
いよいよとなればそなたにはまかせぬ。わしにゆだねよ!」
血も涙もないのか! それにアルデガンのためとかいいながら復讐が目的じゃないか。リアを個人的な目的を果たす道具にしているだけじゃないか。それでリアのことは二の次だなんて!
思い出しただけで反感がつのったそのとき、リアの哀しげな、不安げな声が聞こえた。
「アザリア様はどこ? まぶしくて見えないわ……」
「あそこにおられるじゃないか。あの城壁の上に」
アラードは陽光の中ひときわ目立つ白い人影を指差した。
「見えないなんて……」おかしいといいかけて息をのんだ。転化の兆候がすでに顕れている!
アラードは思わず振り返った。ゴルツが厳しい表情でリアを見つめていた。いざとなればゴルツは言葉のとおりいつでも彼女を殺すに違いない。なんのためらいもなく!
瞬間、アラードの心が定まった。
なにがなんでもリアを守らなければ。死なせてなるもんか!
そのとき、ついに鐘楼の鐘が鳴った。
「刻限じゃ」ゴルツがいった。
「アラード、そなたは先頭に立て。わしはしんがりじゃ。リアを真ん中にはさんで進む」
城壁の上の人々に見送られつつ、彼らは洞門をくぐった。
<第1章:洞窟上層 その3>
入り口から差し込む陽光に浮かび上がった洞窟は天然の状態ではなかった。床や壁のそこかしこに人の手が加えられ、特に床は平らに整えられていて足を取られるような障害物は極力排除されていた。ここが二百年前に魔物たちを追い込み滅する決戦の場として造られたことはアルデガンに住む誰もが知っていた。
尊師アールダは比較を絶する破邪の力を持つ僧侶だった。彼がほとんど独力で大陸各地の魔物の生き残りをこの極北の地に追い込んだときに、当時のノールド王がこの洞窟を整備したと伝えられていた。アールダのそれまでの戦いぶりから、必ずこの洞窟で魔物たちが滅ぶと信じた者は多かったという。
しかし、アールダは幾度かの戦いのあと人々に告げた。洞窟という場所に魔物を追い込んだのは誤りであった。この場所では自分の力を以ってしても魔物たちを滅ぼすことはできない。しかも自分は定命の身にすぎずやがては死ぬ。このままでは自分が死んだとたんに魔物たちが外へあふれ出す。自分の命がある間にこの地に城塞都市を築き、自分の力に匹敵する力で魔物たちと対峙できるよう人々を組織しなければならないと。これがアルデガンの起こりだった。
最初は大陸全土の国々が協力してアルデガンを支えた。しかしアールダがこの世を去って長い年月がたつにつれ、遠方の国々の援助はとだえがちになり、二百年が過ぎた今ではノールドとその勢力下にある北部地域だけが封魔の城塞を支援していたのだ。
奥へ少し進むと、外の光はもう届かなくなった。ゴルツが低く呪文を唱えると、淡くかそけき明かりが行く手を照らした。
アラードとリアは洞窟の中に入るのは初めてだった。いまでも洞窟の中で戦う場合がなくなったわけではないが、敵地での不利な戦いにはそれだけの技量が求められた。それでも戦うたびに犠牲者や行方不明者が出た。行方不明者は吸血鬼にさらわれたのだとの憶測も根強かった。
神に仕える身であったアールダは吸血鬼の存在を決して許さず見つけるそばから滅ぼしたので、この地に追い込まれた魔物の中には吸血鬼はいなかったと伝えられていた。後の時代に闇を求めて外部から侵入したと考えられていた。魔物が徘徊する洞窟の中では犠牲者の骸はほとんどがよみがえるのを待たずに魔物の餌食となったため、吸血鬼が棲みついたことに人間たちはかなりの間気づかなかったのだ。
いまや尊師アールダの時代よりはるかに恐ろしい場所と化した洞窟の闇に、思わずアラードは身を震わせた。
そのとき、背後のリアが押し殺された声で告げた。
「なにかいるわ、そこの岩のかげに!」
アラードは振り向いた。闇を見つめるリアの目がかすかに赤く光ったような気がした。彼はぞっとして向き直り、闇の奥に目をこらした。
だがなにも見えなかった。数歩前に出たことで、岩のかげから突き出た足がようやく見て取れた。人が倒れている! 反射的に駆け出した瞬間ゴルツが一喝した。
「ばかもの! 近づくなっ!」
だがその声が届いたときは、アラードはうつ伏せに倒れたその者の脇に立っていた。鎧の形とずんぐりした体型でそれが誰かはすぐわかった。
「ガモフ!」「下がれアラード! 下がらぬかっ!」
とたんに足首が鉄のような力で掴まれた。
身動きできなくなったアラードの目の前で、ガモフがゆっくり身を起こした。半身が起こされたのに続き、顔が振り仰いだ。
アラードは絶叫した。
それはガモフであってガモフでなかった。顔かたちが彼だっただけでそれ以外のものは人格も感情も丸ごと抜け落ちていた。
見開かれた目はアラードに向いていたが何も見ていなかった。魂がからっぽになった空洞だけが目の奥に広がっていた。
あえぐように開いた口は言葉ひとつ紡がず、人のものではありえない鋭い牙がアラードに向けられた。牙に引きずられるようにうつろな顔がせり上がってきた。顎が人間の限界を超えて大きく開いた。
その口にゴルツの手が白木の杭を打ち込んだ!
ガモフだったものの体が膝をついたままのけぞり、アラードを掴んでいた手が離れた。ゴルツはアラードを背後に突き飛ばし、自らもすばやく下がりながら唱えていた呪文を完成させた。
白木の杭が爆発するように燃え上がり、動く死体を丸ごと呑み込んだ。炎の中で暴れる人影がみるみる嘗め尽くされた。
「他の魔物に感づかれたはずじゃ、この場を離れるぞ!」
ゴルツの言葉が終わりきらぬうちに、洞窟の奥からざわめきが近づいてきた。三人は枝分かれした細い道に身を潜めた。
最初に姿を現わしたのは亜人たちだった。コボルトやオークが炎に目をしばたかせながら興奮して炎の周りを走りまわった。そこへいくつもの首を持った大蛇が現れ、稲妻のように首を振るとたちまち三匹の亜人に食いついた。亜人たちは恐慌に陥り逃げ出した。大部分が洞窟の奥へ逃げ戻ったが何匹かは出口に向かって走り、大蛇も思いがけない速さで巨体を滑らせ後を追った。亜人も大蛇も炎や敵や走りまわる獲物に気をとられて、隠形の魔力を持つマントに身を包んだ三人にはまったく気づかなかった。
「難物が上がりおったか! 犠牲が出ねばよいが……」
ゴルツがつぶやいた。
「いまのうちじゃ、先に進むぞ」
しばらく三人は黙って洞窟の奥に進んだが、身を隠せそうな岩の窪みが見つかったのでゴルツは少し休むことを告げた。そしてリアになにか敵の気配を感じないかとたずねた。
「あれからずっと見られているような気がします」
リアの答えを聞いてゴルツが難しい顔でうなづいた。
「やはりガモフを襲ったものがそなたの仇敵か。アルデガンに侵入した吸血鬼は一人であったようじゃな」
「どういうことですか?」アラードがたずねた。
「わしはアルデガンに複数の吸血鬼が侵入した可能性も案じていた」
ゴルツの言葉に二人は息を呑んだ。
「先に襲われたリアが吸い殺されなんだ理由がわからなかったからじゃ。ガモフを吸い尽くすほど渇いていたなら、助けが入ったわけでもないのにリアを吸い残すわけはなかろう。いまも理由は思いつかぬ」
「だが、ガモフを襲ったものが別の吸血鬼であったなら、ガモフを滅ぼした時点でそやつの目から我らは見えなくなったはず。同じ相手であればこそ、ガモフを失った後もそなたの意識を通じて我らを監視できるのじゃ」
「では、あのときガモフに見られていなければ!」
思わず発せられたアラードの問いにゴルツは首肯した。
「まだ敵に気付かれずにすんでいたやもしれぬ。いまさらいっても栓ないが」
自分が軽はずみだったせいで気づかれたのかっ! アラードが思わず両手を握りしめた瞬間、
「私も……ああなるのですか?」
リアの呻きに二人は振り返った。彼女は膝を屈していた。
「あんなふうに、相手が誰かもわからず襲いかかることになるのですか?」
押さえ込もうとするように我が身をきつく抱き絞めながらも震えを止められぬ少女が、涙をたたえた目が彼らを仰ぎ見た。
「もしも牙が伸びはじめておれば、かなりの傷をおって死んでも甦ることになろう」ゴルツの声は低かった。
「……もう、遅いんですね」
ついに涙がひとすじこぼれ落ちた。そして口が開かれた。細い牙の伸びかけた口が!
「リア!」
思わず叫んだアラードだったが、あとの言葉が続かなかった。それでも華奢な少女は我に返ったようだった。
「すみません。覚悟はしていたつもりだったんです。助かるはずなんてないと……」
リアは立ち上がった。濡れた瞳に悲愴な決意が満ちていた。
「これでふんぎりがつきました。私は地上へは帰りません。もう帰ってはいけないんです! この洞窟こそが死に場所です!」
二人を見つめる空色の目に、あの激しい光が宿った。
「決してこの洞窟から出してはいけません。私も私を襲ったものも! どちらも滅びなければならないんです。もう誰もこんな目にあってはいけないんです! 最後まで戦って死にます!」
蒼ざめた顔が真正面からゴルツに向けられた。
「いよいよの時は、私の魂をお守りください」
「もとよりそれがわしの務めじゃ、その高き魂を守ることが」
アルデガンの大司教が少女の前に膝まづき、手を取った。
「その身の滅ぶ時、必ずそなたの魂を神の御元へ還す!」
ゴルツの誓いにリアがうなづいた。
---その高き魂こそ守られなければならない---
アラードの心に、その言葉がこだました。
ガモフのように空っぽのまま甦るリアの姿が、牙を剥いて迫る顔の冒涜的な幻影が彼を脅かした。
失わせてなるものか、魂を。たとえどんなことをしてでも!
アラードは考えもしなかった、自分の思いがリアやゴルツとわずかながら違いはじめているとは。
<第2章:洞窟中層 その1>
「体に熱を感じます。炎のすぐそばに立っているような……」
ゴルツの問いかけにリアが答えた。
あれからリアは進んで敵の意識に接触し、手掛かりを得ようとしていた。もはや敵の監視下にあり、自らの身が明らかに変化しつつある絶望的な状況がかえって彼女を駆り立てていた。自分が自分でいられるうちにどこまでのことができるか死にもの狂いで追い求めるその姿に、アラードは戦慄すら覚えた。
だがそうまでして得られた手掛かりには、はっきりしない点や不可解なところも多々あった。
敵の姿や様子はいまだにつかめなかった。視線として感じられるだけだった。ゴルツの話では、牙にかけた者の姿を受けた者が見るのは難しいということだった。受けた者はかけた者の支配の魔力の影響下に置かれるため、見聞きするものについて制限や選別を受けるということだった。
けれども炎のそばにいるような感じというリアの答えはずっと同じだった。それを信じるならば、敵は洞窟に入ったリアが意識の接触を始めてからまったく居場所を変えていないということになる。
「そんなことがあるのでしょうか」リアがいった。
「アザリア様がアルマの仇敵を追ったときは、洞窟の中を嘲けりながら逃げまわられてついに追いつけなかったと聞きました」
「化け物の考えることなんかわかるもんか!」
アラードが吐き捨てた。
「同じ所にじっとしているというなら結構じゃないか。さっさとそこへいって戦うだけだ!」
「……あるいは、われらを待ちうけておるか」
ゴルツの低い声にアラードは背筋がぞくりとした。
「正面きって挑みかかるつもりか」
「われらに負けたりはしないというのですか」
アラードの声がかすれた。
陥りかけた沈黙を、突然リアの叫びが破った。
「なんなの? これは……どこ?」
立ち上がった少女の見開いた目が虚空を見つめ、全身がおこりにかかったように震えだした。
「なぜなの? なぜ……それほど憎むの?」
その体がふらついた。
「どうした、リア!」
倒れかかるその身をからくも支えたアラードが叫んだ。
「敵に触れたのだな!」ゴルツが険しい目を向けた。
「そなた、なにを見た? なにを感じた!」
「場所が見えました、いえ、見せつけられました……」
リアの声は震えていた。
「広い洞窟です……。低いけれど大きな火口が地面に口を開けています」
「ここにいると、自分は動かないと、くるがいいと……。憎しみの塊みたいなどす黒い思念が……」
「血に飢えているのでも、嘲けるんでもない、誰彼なしの凄まじい憎悪……。あれが本当に吸血鬼なんですか? なぜあんなに、まさか、あんな……。思っていたのと全然違う……」
「もうやめろ、リア! 落ち着くんだ!」
リアの体をゆさぶるアラードの横でゴルツがぽつりとつぶやいた。
「魔獣に魂を感じたその感応力、さては相手が見せる以上のものを見たか。その心象までも……」
ゴルツはリアに向き直ると、その背に手を当て一声鋭く気合を入れた。激しい震えがようやく収まった。
「この洞窟に口を開けている火口は二つしかない。最深部にあるものはさらに大きく高さもある。そなたが見たのは洞窟の中層にある小さい方の火口のはずじゃ。
敵は我らの動きを知り、その上で挑みかかっておる。秘密裏に動く意味はもはやない。火口へ急ぐぞ!」
「火口に転移するのですか?」
アラードがたずねたが、ゴルツは首を横に振った。
「場所が悪い。あの火口は周りにも炎を吹き上げる亀裂が多く、下手に転移すると炎に焼かれかねぬ。しかも敵の位置もわからぬ以上、相手の目の前に背中をさらす危険もある」
「通路とて同じじゃ。うかつに跳べば魔物の群の中ともなりかねぬ。急ぐが用心せよ!」
三人は走り出した。
魔法の燐光だけを頼りに暗闇の中をどれだけ走ったか、アラードの感覚が薄れ始めたとき、ゴルツが止まるよう命じた。
前方が騒がしかった。種類の違う咆哮が入り乱れた。
「なにかおるぞ。一匹や二匹ではあるまい」
三人は壁をつたいながら忍び寄り、様子をうかがった。
洞窟が広がった地底湖だった。どうやら浅瀬のようだったが、広い窪み全体を水が満たしていた。反対側の水面の少し上に通路が口を開けていた。その浅い湖で魔物たちが戦っていた。
触手と多くの口を持つクラゲかタコのような怪物の巣に、多頭の魔獣たちが踏み込んだらしかった。触手を持つ怪物のうちずばぬけて大きなものが二匹の魔獣を絞め上げていたが、三匹の魔獣が人間ほどしかない小さな怪物たちを追いまわしていた。怪物の親が二匹の魔獣を絞め殺したときには、仔の数も半分程度にまで減じていた。
「向こうの通路へ転移する。二人ともわしにつかまれ」
呪文が完成するとアラードは力場に包まれたのを感じた。一瞬でそれは終わり、前方からの咆哮が背後に移っていた。
だがほっとして走り始めたその足が柔らかいものを踏みつけた瞬間、腰から下に触手が巻きついた。魔獣に追われた怪物の仔が通路に逃げ込んでいたのだ。鋭い歯を持つ触手の先がいっせいに鎌首をもたげた。
アラードは必死で丸い胴体に見開いた目らしきものに剣を突き立てた。急所を突かれた怪物は甲高い悲鳴を上げ、牙をそなえた触手が地に落ちた。だが下半身を捕らえた触手の吸盤は全く離れなかった。そこへ背後から、凄まじい咆哮が響き渡った!
「やむをえん!」
ゴルツがひときわ複雑な呪文を驚くべき速さで編み上げた。
地底湖に真っ白い光が炸裂し、凄まじい熱風が通路にまで吹き込んだ。アラードは髪の先が焦げたのを感じた。
だが巨大な火だるまの姿が一つ、通路に躍り込んできた。形の異なる首のうち二つが焦げつき垂れ下がっていたが、角を備えた一つがまだ生きていた。燃え上がり盲いた魔獣は身動きできぬアラードに突進した。思わず目を閉じたアラードの耳に肉の裂ける鈍い音が届くと同時に凄まじい熱が身をかすめ、岩に何かが激突する激しい音がした。
目を開けたアラードが振り向くと魔獣は絶命していた。大きな骸が煙を上げていた。
だがそのすぐそばに、華奢な人影が倒れていた!
<第2章:洞窟中層 その2>
アラードは言葉にならぬわめき声をあげながら、からみついた触手をめちゃくちゃに斬り裂いた。勢い余って自らの体に何度も刃を立てたことさえまったく気がつかぬまま。
やっとリアの側に駆け寄ったときには、ゴルツが血溜りの横に膝まずき身をかがめていた。
まだ息はあったが意識はなかった。脇腹が大きくえぐられた、助かりようのない傷だった。
身を投げ出して角にかかった? 自分を助けるために?
自分がリアを助けるためにきたはずなのに?
受け入れられなかった。
自分が化け物を踏んで、自分が動けなくなって……。
なぜ死にかけているのがリアなんだ!
どうしても受け入れられなかった。
「……そなたの高き魂こそ守られなければならぬ」
そうだ、そのとおりだ。失われてはいけないんだ。
だが、声は喉に貼りつき出なかった。
「いまこそ誓いの刻」
……なにをいっている?
「そなたの望みどおり、その魂、神の御元へ還す」
違うだろおぉっ!
「この世での苦痛と転化の呪いから解き放たれよ……」
殺すつもりだ! なんのためらいもなく!
ゴルツはゆっくりと輝く錫杖を掲げた。
死なせてなるもんかっ!!
鈍い音が聞こえた。
いつのまにか、大きな石を手に持っていた。
足下にゴルツが倒れていた。
自分が殴り倒した? ゴルツ閣下を?
血の気が引き、手から石が落ちた。
リアを見た。弱く、浅く、苦しげな息をしていた。
だから閣下は殺そうとしたんだ、楽にさせるために。
自分がするしかない……。刃をリアに向けた。
かなりの傷をおって死んでも甦ることになろう。
そんなゴルツの言葉が脳裏に浮かんだ。
甦らないようにするには、どうすれば……。
ゴルツはおそらく亡骸を焼くつもりだったに違いない。自分にできる技ではない。
首をはねるしかないのか? 刃を少女の細い首に向けた。
だが手は震え、取り落とした剣が音をたてた。そのときリアが弱々しく喘ぎ、開いた口元に細い牙がのぞいた。
アラードの目が釘付けになった。
このままではからっぽのまま甦る。魂を失くした肉体だけが、ガモフみたいな動く死体になりはてて……。
その恐怖に抗うように、追い立てられるように、内なる思いが声をあげた。
魂を失わせてなるものか。どんなことをしてでも!
すると思念がこだまを返してきた。
……この世に留める? 魂を? どんなことをしてでも?
あの牙を見ろ。もう手遅れだ。やがてガモフのように甦って、おまえの血を吸おうとするのだ。
では、甦る前に、死ぬ前に与えれば?
……魂は失われないんじゃ……?
異様な悪寒が背を走った。だが一度思いついた考えは、もはや消せなかった。そしてリアの息がさらに弱く、浅くなった。もう時間がない!
右手で剣を逆手に持ち、左の掌を刃に当てた。震える掌はたちまち裂け、鮮血が刃身を伝い流れた。
牙の伸びた口元に刃先をあてがい、紅の流れを含ませた。
喉が小さく動いた。息が止まり、大きく吸われた。
まぶたが震え、ゆっくり開かれた。
青い目が、空色の瞳がアラードの顔に焦点を結んだ。
「アラード……?」
リアが身を起こした。だが脇腹の傷が癒着した瞬間、その目が驚愕に見開かれた。
「これはなに? 流れが見える、血の巡りが見えるわ!」
見開かれた目が失せた傷に向けられ、両手がおずおずと口元をなぞった。開いた掌に赤い染みが付いていた。
再びアラードに向けられた視線が血に濡れた刃を認めた。
「まさか、アラード! なんてこと……っ」
いいかけた言葉が突然とぎれ、細い顔が中空を仰ぎ見た。
「だれ? だれなの? 私を笑うのは」
瞳が虚空を見据えていた。
「あなたなの? 私を牙にかけた!」
敵を視ている? アラードは思わず数歩近づいた。
「きてはだめ! 近づかないでっ!」
その動きに気づいたリアが大きく跳び退いた。人間離れした跳躍だった。
「転化してしまった、人間じゃなくなった……」
後じさりしながら、華奢な少女は呻いた。
「血の流れが見えてしまった。もう一緒にいられないわ!」
たちまち身を翻し、そのまま闇の彼方へ走り去った。
呆然と立ち尽くす若者の、やがて背後で呻き声がした。
「アラード。そなた、なにを……っ」
ゴルツが頭を振りつつ、半身を起こしていた。
「リアはどこじゃ……? なぜおらぬ?」
血染めの剣を認めた緑の目が、リアと同じく見開かれた。
「そなた、リアにその血を飲ませたのか!」
ゴルツは跳ね起き、アラードに詰め寄った。
「ばかものっ! リアを転化させたのか、生きたまま!」
錫杖の一撃がアラードを叩き伏せた。
「自分が何をしたのかわからぬのかっ! 吸血鬼の肉体に人間の魂を閉じ込めたのだぞ。毒蜘蛛の背に胡蝶を無残に縫い付けたのだぞ。どれだけ魂が苦しみ歪むか考えもせなんだかっ!」
ゴルツはアラードに背を向け数歩進んで足を止めた。
「火口は右の枝道を入ってすぐじゃ。ついてこい! そこにおるものも人の心を残して転化したもの、その末路の姿じゃ。初めて探知の術を使ったときわしにはわかった。そなたもその目で見るがいい!」
真昼の光を浴び赤毛を風になびかせながら、アラードはリアとゴルツとともに洞門の前の砂地に立っていた。アラードは体格に合わせた軽い鎧、リアは皮で補強された胴着、ゴルツはラーダの紋章が入った長衣に軽い皮の胸当てという着慣れたいでたちだったが、三人ともその上から灰色のマントをはおっていた。それは魔物に見つかりにくくなる隠形の呪文がかけられたものだった。彼らはこれから困難な、ほとんど絶望的な探索に赴こうとしていた。
だが、アラードはいまだに気持ちの整理をつけられずにいた。これまでのなりゆきが何度も心の中をめぐるばかりだった。
あのとき集会所で、祭壇に眠るリアの意識を探ったゴルツは、アルデガンに侵入した吸血鬼が洞窟に戻っていると告げた。
そして驚くべきことに、ゴルツ自身がこれを滅ぼすため洞窟へ赴くといったのだ。
あまりに危険なこの案に多くの者が反対した。とりわけグロスはこれをなんとか翻意させようとした。もしゴルツが斃れることになればアルデガンはどうなるのかと。そのような危険を冒さずとも敵がまたアルデガンへ侵入しようとしたときに水際で倒せばよいではないかと。
「ならぬ! それではアルデガンに住む者すべてを危険にさらすことになる」
ゴルツは譲らなかった。
「洞窟で戦うならわしが斃れたところで犠牲は一人。だが水際で食いとめられずに侵入を許し、出会う者を片端から牙にかけられたらなんとする! たちまちアルデガンそのものが瓦解するではないか」
これには誰も反論できなかった。
「吸血鬼を滅ぼすには解呪の技を使うしかない。しかも居場所を探るには探知の秘術も欠かせぬ。この両方を使うことができる者はわししかおらぬ」
「では、せめて護衛を!」
「護衛が勤まるような者はもはやいくらもおらぬ。誰一人欠かすことのできぬ者ばかりじゃ。それに騒ぎになれば敵に感づかれてしまう。他の魔物とはいっさい戦わずに吸血鬼のもとへ赴くしかない。わしがリアを伴い二人でゆく」
「私もいきます!」
アラードは立ち上がった。
「ならぬ。足手まといじゃ」
いい放つゴルツをアラードは睨みつけた。
「閣下はリアに死ねと宣告したではありませんか。くるなといわれても追いかけていきます!」
「いいかげんにしろ!」
ボルドフが怒鳴った。だがアラードは引かなかった。
「閣下もみなさんもリアのことなど考えていません。だから私は絶対についていきます。誰がなんといおうと!」
ゴルツはアラードを真正面から見すえた。
「リアはすでに覚悟をしておるぞ。そなたも聞いたであろう? もはや我が身のためではないと、他の者が餌食になるのが耐えられないと申していたのを」
そして、祭壇で眠り続けるリアの側へ歩み寄った。
「……まことに不憫ではある。だが吸血鬼の牙を受けた者の命運は尽きたも同然。そのことは本人が誰よりもわかっておる。
その上で、リアは我が身の恐怖と絶望が他の者へ振りかからないように最後まで戦おうといっておるのじゃ。どれほどの覚悟が必要か、そなた想像がつくか?
そなたの出る幕ではない! 覚悟がゆらぐばかりじゃ」
「お待ちください」
アザリアが静かにいった。
「確かにリアは覚悟をしています。でも、親しい者の存在がその支えになることもあるはずです」
アザリアもまた祭壇に歩み寄り、ゴルツに相対した。
「いくら覚悟をしているとはいえまだ十五の娘の身。しかもその身はじわじわと人間でないものに変じ、敵の影響力も増してゆくばかり……。本人にとってどれほど恐ろしいことか、かつて私は思い知らされました。とうとう救うことができなかったアルマの姿に……」
アザリアはリアの顔に痛ましそうな視線を向けたが、ふたたびゴルツに目を向けた。
「アラードは洞窟の中では足手まといにすぎないでしょう。でも彼の存在がリアの魂のぎりぎりの危機を左右するかもしれないという気がします。連れていっていただけませんでしょうか」
ゴルツは長い間アザリアの目を見つめたが、ついに重々しく首肯した。
「……そなたがそれほどいうのなら」
「アザリア様! ありがとうございます……」
アラードは声を弾ませたが、振り向いたアザリアの表情の厳しさに思わず息をのんだ。
「リアを支えるということは、あなたがなにか1つ間違えば逆に苦しめかねないということよ。生やさしいことではないわ」
アザリアは祭壇から離れ、アラードの正面に立った。
「私はとうとうアルマを救えなかった。敵に意識をのっとられて襲いかかる彼女をついにこの手で焼き殺すしかなかった。
あなたも自分の手でリアを殺さなければならなくなるかもしれないのよ。その覚悟はある?」
リアの師であり名付け親でもあるアザリアの言葉にアラードはすぐに答えることができなかった。そんな彼をアザリアはしばし見すえていたが、目を細めるとこういった。
「大司教閣下の命令には従いなさい。絶対よ。いいわね!」
アザリアの言葉は厳しかったが、それでもリアを想う気持ちは痛いほど伝わってきた。だからアラードも納得できた。
だがアザリアが従えというゴルツのことは、どうしても信頼する気になれなかった。リアが目覚めてからゴルツの部屋に二人で呼ばれたときのことを彼はまた思い返した。
<第1章:洞窟上層 その2>
「洞窟に入ればそなたにも敵の気配が感じ取れるようになろう、それもしだいに強く。その意味はわかるな?」ゴルツのその言葉は、アラードにはなんの容赦もないとしか思えなかった。
リアはうなづいた。だがアラードが思ったとおり、その顔から血の気が引いていた。
「敵にとってもそなたの気配が感じやすくなる。単に場所が近くなるだけではなく、そなたの転化が進むからでもある。そなたはやがて敵の所在をおぼろげに感じ取れるようになる。転化が進めば進むほど敵の所在や様子ははっきりとわかるようになろう」
ゴルツの緑色の双眸が鋭い光を帯びた。
「はっきり申しておく。わしの目的はアルデガンを襲った吸血鬼を滅することじゃ。アルデガンを預かるわしが洞窟に赴く以上、それが最優先となる。そなたがどうなるかはあくまで結果じゃ。わかるな?」
「……わかっています」
リアは応えた。色を無くした唇を固く結び、ゴルツの目を正面から見つめて。
だが、アラードは黙っていられなかった。
「あまりにひどいお言葉ではありませんか、閣下! リアのことは二の次だとおっしゃるんですか!」
いいつのるアラードを、ゴルツはじろりと見た。
「いかにも」
ゴルツが立ち上がった。二人は見下ろされる形になった。
「そなたの思いは当然のことではある。だが吸血鬼が相手では、その思いこそが命取りとなりかねぬ。
二人ともアザリアの話を聞いたであろう? 自ら親友であった者を殺めるしかなかったというのを」
二人はうなづいた。
「そもそも吸血鬼は他の魔物とは大きく異なる。他の魔物はつまるところ生き物じゃ。亜人にせよ魔獣にせよ生き物としての理の中にある。結局は生きるために我ら人間を食おうとする」
リアがうなづいていた。魔獣の魂を感じたという身には思い当たる話なのかとアラードは思った。
「だが吸血鬼は生き物の理には収まらぬ存在じゃ。むしろ魂への呪縛が肉体を不死たらしめていると捉えるべきであろう。いくら斬り刻んでも死なず、たとえ炎で焼き尽くしても復活してしまう度を超した不死の力は生命ではなく呪いの範疇にあるもの。ゆえに魂を呪縛する不死の力を砕く解呪の技でしか倒せぬのじゃ」
ゴルツの口調も、そんなリアに言い聞かせるようだった。
「そしてかの恐るべき血への渇望。死ぬことができぬ存在である以上、他の魔物が人の血肉を食らうのとは意味あいが違う。
犠牲者を転化させる力を発揮させるためにこそ与えられた渇きであろう。自らが生き延びるためでなく他の者を自らと同じ身に化生させるために。これまた呪いの範疇にあるとしかいえぬ」
ゴルツの視線がリアからアラードに移された。
「まことに恐るべき呪いじゃ。そしてアルデガンにいる者、特にそなたのような者はとりわけこの呪いの連鎖に陥りやすい」
「どうしてです? なぜ私がそんな呪いに陥りやすいと!」
アラードはゴルツのまなざしが自分に向けられたことに怒りを覚え声を荒げた。だがゴルツは重々しく続けた。
「人を守るため命がけで魔物と戦う。そなたたちはこの地に生まれ、その使命を叩き込まれて育ったはずじゃ。アルデガンの外で人間と戦ったことのある者はいまやほとんどおらぬ。それゆえあからさまに魔物の姿をした相手であれば勇敢に戦える反面、人の姿をした者であれば刃を向けることさえ意識するしないにかかわらず抵抗がある。かなりの手練れでも技が鈍る。
当然じゃ。人と戦うことが使命ではないのだから。守ることを使命とする身であれば、殺す訓練などしてもおらぬのだから。
ましてそれが身近な者の姿をしていれば、昨日まで共に戦った仲間であれば、よほどの覚悟がなければまともに戦えぬ。その力もさりながら吸血鬼はアルデガンの者にとってまことに恐るべき難敵!」
ゴルツはアラードの目を正面から見つめた。
「アザリアほどの者であればこそ友を送ることができたのじゃ。病に伏した己の身代りにさせたという思いに苛まれ、友の恐怖と絶望に寄り添い我がものとして死力を尽くし救おうとしたにもかかわらず力及ばず、全ての希望が潰えた絶望に泣き叫びながらもな……。さもなくば一瞬の迷いを突かれ牙にかかったはず。
アザリアが申したであろう。そなたにリアを殺す覚悟があるかと。アザリアの申すのはそれほどの意味じゃ。そなたにできることではあるまい?」
ゴルツの言葉に、アラードはなにもいえなかった。
だがゴルツの視線が、ふとアラードから離れた。
「いや、それではあまりにそなたに酷か。二十年前でさえそんな者はいくらもおらなんだのだから……」
「だからこそわしは吸血鬼と戦うことも、アルマの事件からはさらわれた者を救いにいくことも禁じた。だが、その直後にまたも吸血鬼にさらわれた者が出た。そして禁じられたにもかかわらずさらわれた者を救おうとして洞窟に単身乗り込んだ者もいた」
「ガラリアン……」
リアのつぶやきにゴルツはうなづいた。
「アザリアから聞いたか。では結果も知っていよう。ガラリアンは凄まじい力で出会う魔物を片端から焼き殺しながら洞窟半ばまで進んだが、結局さらわれた者も吸血鬼も見つけることさえできなかった。あれだけの力をもってしても。
しかも彼を連れ戻すために後を追ったアザリア共々傷を追い、自身はアルデガンを出奔し、アザリアは呪文を唱えれば死ぬ身となった。一人の愚行が二人もの手練れを失わしめた」
「閣下が禁じなければ、協力して助けにいけばなんとかなったかもしれないじゃないですか。閣下は助けにいく者の気持ちなんかどうでもいいんですか? しょせん他人事なんですか?」
一瞬、ゴルツの激しい眼光がアラードを射すくめた。
「他人事と申すか! さらわれたのは我が娘じゃ!」
言葉を失ったアラードを見下ろすゴルツの顔は、とてつもなく厳しかった。
「わしは我が娘の救助を禁じた。被害が増えるのがわかりきっている以上それしかなかった。
アルデガンの長ならば当然のこと。娘であろうと二の次じゃ。今度とて同じこと。
いよいよとなればそなたにはまかせぬ。わしにゆだねよ!」
血も涙もないのか! それにアルデガンのためとかいいながら復讐が目的じゃないか。リアを個人的な目的を果たす道具にしているだけじゃないか。それでリアのことは二の次だなんて!
思い出しただけで反感がつのったそのとき、リアの哀しげな、不安げな声が聞こえた。
「アザリア様はどこ? まぶしくて見えないわ……」
「あそこにおられるじゃないか。あの城壁の上に」
アラードは陽光の中ひときわ目立つ白い人影を指差した。
「見えないなんて……」おかしいといいかけて息をのんだ。転化の兆候がすでに顕れている!
アラードは思わず振り返った。ゴルツが厳しい表情でリアを見つめていた。いざとなればゴルツは言葉のとおりいつでも彼女を殺すに違いない。なんのためらいもなく!
瞬間、アラードの心が定まった。
なにがなんでもリアを守らなければ。死なせてなるもんか!
そのとき、ついに鐘楼の鐘が鳴った。
「刻限じゃ」ゴルツがいった。
「アラード、そなたは先頭に立て。わしはしんがりじゃ。リアを真ん中にはさんで進む」
城壁の上の人々に見送られつつ、彼らは洞門をくぐった。
<第1章:洞窟上層 その3>
入り口から差し込む陽光に浮かび上がった洞窟は天然の状態ではなかった。床や壁のそこかしこに人の手が加えられ、特に床は平らに整えられていて足を取られるような障害物は極力排除されていた。ここが二百年前に魔物たちを追い込み滅する決戦の場として造られたことはアルデガンに住む誰もが知っていた。
尊師アールダは比較を絶する破邪の力を持つ僧侶だった。彼がほとんど独力で大陸各地の魔物の生き残りをこの極北の地に追い込んだときに、当時のノールド王がこの洞窟を整備したと伝えられていた。アールダのそれまでの戦いぶりから、必ずこの洞窟で魔物たちが滅ぶと信じた者は多かったという。
しかし、アールダは幾度かの戦いのあと人々に告げた。洞窟という場所に魔物を追い込んだのは誤りであった。この場所では自分の力を以ってしても魔物たちを滅ぼすことはできない。しかも自分は定命の身にすぎずやがては死ぬ。このままでは自分が死んだとたんに魔物たちが外へあふれ出す。自分の命がある間にこの地に城塞都市を築き、自分の力に匹敵する力で魔物たちと対峙できるよう人々を組織しなければならないと。これがアルデガンの起こりだった。
最初は大陸全土の国々が協力してアルデガンを支えた。しかしアールダがこの世を去って長い年月がたつにつれ、遠方の国々の援助はとだえがちになり、二百年が過ぎた今ではノールドとその勢力下にある北部地域だけが封魔の城塞を支援していたのだ。
奥へ少し進むと、外の光はもう届かなくなった。ゴルツが低く呪文を唱えると、淡くかそけき明かりが行く手を照らした。
アラードとリアは洞窟の中に入るのは初めてだった。いまでも洞窟の中で戦う場合がなくなったわけではないが、敵地での不利な戦いにはそれだけの技量が求められた。それでも戦うたびに犠牲者や行方不明者が出た。行方不明者は吸血鬼にさらわれたのだとの憶測も根強かった。
神に仕える身であったアールダは吸血鬼の存在を決して許さず見つけるそばから滅ぼしたので、この地に追い込まれた魔物の中には吸血鬼はいなかったと伝えられていた。後の時代に闇を求めて外部から侵入したと考えられていた。魔物が徘徊する洞窟の中では犠牲者の骸はほとんどがよみがえるのを待たずに魔物の餌食となったため、吸血鬼が棲みついたことに人間たちはかなりの間気づかなかったのだ。
いまや尊師アールダの時代よりはるかに恐ろしい場所と化した洞窟の闇に、思わずアラードは身を震わせた。
そのとき、背後のリアが押し殺された声で告げた。
「なにかいるわ、そこの岩のかげに!」
アラードは振り向いた。闇を見つめるリアの目がかすかに赤く光ったような気がした。彼はぞっとして向き直り、闇の奥に目をこらした。
だがなにも見えなかった。数歩前に出たことで、岩のかげから突き出た足がようやく見て取れた。人が倒れている! 反射的に駆け出した瞬間ゴルツが一喝した。
「ばかもの! 近づくなっ!」
だがその声が届いたときは、アラードはうつ伏せに倒れたその者の脇に立っていた。鎧の形とずんぐりした体型でそれが誰かはすぐわかった。
「ガモフ!」「下がれアラード! 下がらぬかっ!」
とたんに足首が鉄のような力で掴まれた。
身動きできなくなったアラードの目の前で、ガモフがゆっくり身を起こした。半身が起こされたのに続き、顔が振り仰いだ。
アラードは絶叫した。
それはガモフであってガモフでなかった。顔かたちが彼だっただけでそれ以外のものは人格も感情も丸ごと抜け落ちていた。
見開かれた目はアラードに向いていたが何も見ていなかった。魂がからっぽになった空洞だけが目の奥に広がっていた。
あえぐように開いた口は言葉ひとつ紡がず、人のものではありえない鋭い牙がアラードに向けられた。牙に引きずられるようにうつろな顔がせり上がってきた。顎が人間の限界を超えて大きく開いた。
その口にゴルツの手が白木の杭を打ち込んだ!
ガモフだったものの体が膝をついたままのけぞり、アラードを掴んでいた手が離れた。ゴルツはアラードを背後に突き飛ばし、自らもすばやく下がりながら唱えていた呪文を完成させた。
白木の杭が爆発するように燃え上がり、動く死体を丸ごと呑み込んだ。炎の中で暴れる人影がみるみる嘗め尽くされた。
「他の魔物に感づかれたはずじゃ、この場を離れるぞ!」
ゴルツの言葉が終わりきらぬうちに、洞窟の奥からざわめきが近づいてきた。三人は枝分かれした細い道に身を潜めた。
最初に姿を現わしたのは亜人たちだった。コボルトやオークが炎に目をしばたかせながら興奮して炎の周りを走りまわった。そこへいくつもの首を持った大蛇が現れ、稲妻のように首を振るとたちまち三匹の亜人に食いついた。亜人たちは恐慌に陥り逃げ出した。大部分が洞窟の奥へ逃げ戻ったが何匹かは出口に向かって走り、大蛇も思いがけない速さで巨体を滑らせ後を追った。亜人も大蛇も炎や敵や走りまわる獲物に気をとられて、隠形の魔力を持つマントに身を包んだ三人にはまったく気づかなかった。
「難物が上がりおったか! 犠牲が出ねばよいが……」
ゴルツがつぶやいた。
「いまのうちじゃ、先に進むぞ」
しばらく三人は黙って洞窟の奥に進んだが、身を隠せそうな岩の窪みが見つかったのでゴルツは少し休むことを告げた。そしてリアになにか敵の気配を感じないかとたずねた。
「あれからずっと見られているような気がします」
リアの答えを聞いてゴルツが難しい顔でうなづいた。
「やはりガモフを襲ったものがそなたの仇敵か。アルデガンに侵入した吸血鬼は一人であったようじゃな」
「どういうことですか?」アラードがたずねた。
「わしはアルデガンに複数の吸血鬼が侵入した可能性も案じていた」
ゴルツの言葉に二人は息を呑んだ。
「先に襲われたリアが吸い殺されなんだ理由がわからなかったからじゃ。ガモフを吸い尽くすほど渇いていたなら、助けが入ったわけでもないのにリアを吸い残すわけはなかろう。いまも理由は思いつかぬ」
「だが、ガモフを襲ったものが別の吸血鬼であったなら、ガモフを滅ぼした時点でそやつの目から我らは見えなくなったはず。同じ相手であればこそ、ガモフを失った後もそなたの意識を通じて我らを監視できるのじゃ」
「では、あのときガモフに見られていなければ!」
思わず発せられたアラードの問いにゴルツは首肯した。
「まだ敵に気付かれずにすんでいたやもしれぬ。いまさらいっても栓ないが」
自分が軽はずみだったせいで気づかれたのかっ! アラードが思わず両手を握りしめた瞬間、
「私も……ああなるのですか?」
リアの呻きに二人は振り返った。彼女は膝を屈していた。
「あんなふうに、相手が誰かもわからず襲いかかることになるのですか?」
押さえ込もうとするように我が身をきつく抱き絞めながらも震えを止められぬ少女が、涙をたたえた目が彼らを仰ぎ見た。
「もしも牙が伸びはじめておれば、かなりの傷をおって死んでも甦ることになろう」ゴルツの声は低かった。
「……もう、遅いんですね」
ついに涙がひとすじこぼれ落ちた。そして口が開かれた。細い牙の伸びかけた口が!
「リア!」
思わず叫んだアラードだったが、あとの言葉が続かなかった。それでも華奢な少女は我に返ったようだった。
「すみません。覚悟はしていたつもりだったんです。助かるはずなんてないと……」
リアは立ち上がった。濡れた瞳に悲愴な決意が満ちていた。
「これでふんぎりがつきました。私は地上へは帰りません。もう帰ってはいけないんです! この洞窟こそが死に場所です!」
二人を見つめる空色の目に、あの激しい光が宿った。
「決してこの洞窟から出してはいけません。私も私を襲ったものも! どちらも滅びなければならないんです。もう誰もこんな目にあってはいけないんです! 最後まで戦って死にます!」
蒼ざめた顔が真正面からゴルツに向けられた。
「いよいよの時は、私の魂をお守りください」
「もとよりそれがわしの務めじゃ、その高き魂を守ることが」
アルデガンの大司教が少女の前に膝まづき、手を取った。
「その身の滅ぶ時、必ずそなたの魂を神の御元へ還す!」
ゴルツの誓いにリアがうなづいた。
---その高き魂こそ守られなければならない---
アラードの心に、その言葉がこだました。
ガモフのように空っぽのまま甦るリアの姿が、牙を剥いて迫る顔の冒涜的な幻影が彼を脅かした。
失わせてなるものか、魂を。たとえどんなことをしてでも!
アラードは考えもしなかった、自分の思いがリアやゴルツとわずかながら違いはじめているとは。
<第2章:洞窟中層 その1>
「体に熱を感じます。炎のすぐそばに立っているような……」
ゴルツの問いかけにリアが答えた。
あれからリアは進んで敵の意識に接触し、手掛かりを得ようとしていた。もはや敵の監視下にあり、自らの身が明らかに変化しつつある絶望的な状況がかえって彼女を駆り立てていた。自分が自分でいられるうちにどこまでのことができるか死にもの狂いで追い求めるその姿に、アラードは戦慄すら覚えた。
だがそうまでして得られた手掛かりには、はっきりしない点や不可解なところも多々あった。
敵の姿や様子はいまだにつかめなかった。視線として感じられるだけだった。ゴルツの話では、牙にかけた者の姿を受けた者が見るのは難しいということだった。受けた者はかけた者の支配の魔力の影響下に置かれるため、見聞きするものについて制限や選別を受けるということだった。
けれども炎のそばにいるような感じというリアの答えはずっと同じだった。それを信じるならば、敵は洞窟に入ったリアが意識の接触を始めてからまったく居場所を変えていないということになる。
「そんなことがあるのでしょうか」リアがいった。
「アザリア様がアルマの仇敵を追ったときは、洞窟の中を嘲けりながら逃げまわられてついに追いつけなかったと聞きました」
「化け物の考えることなんかわかるもんか!」
アラードが吐き捨てた。
「同じ所にじっとしているというなら結構じゃないか。さっさとそこへいって戦うだけだ!」
「……あるいは、われらを待ちうけておるか」
ゴルツの低い声にアラードは背筋がぞくりとした。
「正面きって挑みかかるつもりか」
「われらに負けたりはしないというのですか」
アラードの声がかすれた。
陥りかけた沈黙を、突然リアの叫びが破った。
「なんなの? これは……どこ?」
立ち上がった少女の見開いた目が虚空を見つめ、全身がおこりにかかったように震えだした。
「なぜなの? なぜ……それほど憎むの?」
その体がふらついた。
「どうした、リア!」
倒れかかるその身をからくも支えたアラードが叫んだ。
「敵に触れたのだな!」ゴルツが険しい目を向けた。
「そなた、なにを見た? なにを感じた!」
「場所が見えました、いえ、見せつけられました……」
リアの声は震えていた。
「広い洞窟です……。低いけれど大きな火口が地面に口を開けています」
「ここにいると、自分は動かないと、くるがいいと……。憎しみの塊みたいなどす黒い思念が……」
「血に飢えているのでも、嘲けるんでもない、誰彼なしの凄まじい憎悪……。あれが本当に吸血鬼なんですか? なぜあんなに、まさか、あんな……。思っていたのと全然違う……」
「もうやめろ、リア! 落ち着くんだ!」
リアの体をゆさぶるアラードの横でゴルツがぽつりとつぶやいた。
「魔獣に魂を感じたその感応力、さては相手が見せる以上のものを見たか。その心象までも……」
ゴルツはリアに向き直ると、その背に手を当て一声鋭く気合を入れた。激しい震えがようやく収まった。
「この洞窟に口を開けている火口は二つしかない。最深部にあるものはさらに大きく高さもある。そなたが見たのは洞窟の中層にある小さい方の火口のはずじゃ。
敵は我らの動きを知り、その上で挑みかかっておる。秘密裏に動く意味はもはやない。火口へ急ぐぞ!」
「火口に転移するのですか?」
アラードがたずねたが、ゴルツは首を横に振った。
「場所が悪い。あの火口は周りにも炎を吹き上げる亀裂が多く、下手に転移すると炎に焼かれかねぬ。しかも敵の位置もわからぬ以上、相手の目の前に背中をさらす危険もある」
「通路とて同じじゃ。うかつに跳べば魔物の群の中ともなりかねぬ。急ぐが用心せよ!」
三人は走り出した。
魔法の燐光だけを頼りに暗闇の中をどれだけ走ったか、アラードの感覚が薄れ始めたとき、ゴルツが止まるよう命じた。
前方が騒がしかった。種類の違う咆哮が入り乱れた。
「なにかおるぞ。一匹や二匹ではあるまい」
三人は壁をつたいながら忍び寄り、様子をうかがった。
洞窟が広がった地底湖だった。どうやら浅瀬のようだったが、広い窪み全体を水が満たしていた。反対側の水面の少し上に通路が口を開けていた。その浅い湖で魔物たちが戦っていた。
触手と多くの口を持つクラゲかタコのような怪物の巣に、多頭の魔獣たちが踏み込んだらしかった。触手を持つ怪物のうちずばぬけて大きなものが二匹の魔獣を絞め上げていたが、三匹の魔獣が人間ほどしかない小さな怪物たちを追いまわしていた。怪物の親が二匹の魔獣を絞め殺したときには、仔の数も半分程度にまで減じていた。
「向こうの通路へ転移する。二人ともわしにつかまれ」
呪文が完成するとアラードは力場に包まれたのを感じた。一瞬でそれは終わり、前方からの咆哮が背後に移っていた。
だがほっとして走り始めたその足が柔らかいものを踏みつけた瞬間、腰から下に触手が巻きついた。魔獣に追われた怪物の仔が通路に逃げ込んでいたのだ。鋭い歯を持つ触手の先がいっせいに鎌首をもたげた。
アラードは必死で丸い胴体に見開いた目らしきものに剣を突き立てた。急所を突かれた怪物は甲高い悲鳴を上げ、牙をそなえた触手が地に落ちた。だが下半身を捕らえた触手の吸盤は全く離れなかった。そこへ背後から、凄まじい咆哮が響き渡った!
「やむをえん!」
ゴルツがひときわ複雑な呪文を驚くべき速さで編み上げた。
地底湖に真っ白い光が炸裂し、凄まじい熱風が通路にまで吹き込んだ。アラードは髪の先が焦げたのを感じた。
だが巨大な火だるまの姿が一つ、通路に躍り込んできた。形の異なる首のうち二つが焦げつき垂れ下がっていたが、角を備えた一つがまだ生きていた。燃え上がり盲いた魔獣は身動きできぬアラードに突進した。思わず目を閉じたアラードの耳に肉の裂ける鈍い音が届くと同時に凄まじい熱が身をかすめ、岩に何かが激突する激しい音がした。
目を開けたアラードが振り向くと魔獣は絶命していた。大きな骸が煙を上げていた。
だがそのすぐそばに、華奢な人影が倒れていた!
<第2章:洞窟中層 その2>
アラードは言葉にならぬわめき声をあげながら、からみついた触手をめちゃくちゃに斬り裂いた。勢い余って自らの体に何度も刃を立てたことさえまったく気がつかぬまま。
やっとリアの側に駆け寄ったときには、ゴルツが血溜りの横に膝まずき身をかがめていた。
まだ息はあったが意識はなかった。脇腹が大きくえぐられた、助かりようのない傷だった。
身を投げ出して角にかかった? 自分を助けるために?
自分がリアを助けるためにきたはずなのに?
受け入れられなかった。
自分が化け物を踏んで、自分が動けなくなって……。
なぜ死にかけているのがリアなんだ!
どうしても受け入れられなかった。
「……そなたの高き魂こそ守られなければならぬ」
そうだ、そのとおりだ。失われてはいけないんだ。
だが、声は喉に貼りつき出なかった。
「いまこそ誓いの刻」
……なにをいっている?
「そなたの望みどおり、その魂、神の御元へ還す」
違うだろおぉっ!
「この世での苦痛と転化の呪いから解き放たれよ……」
殺すつもりだ! なんのためらいもなく!
ゴルツはゆっくりと輝く錫杖を掲げた。
死なせてなるもんかっ!!
鈍い音が聞こえた。
いつのまにか、大きな石を手に持っていた。
足下にゴルツが倒れていた。
自分が殴り倒した? ゴルツ閣下を?
血の気が引き、手から石が落ちた。
リアを見た。弱く、浅く、苦しげな息をしていた。
だから閣下は殺そうとしたんだ、楽にさせるために。
自分がするしかない……。刃をリアに向けた。
かなりの傷をおって死んでも甦ることになろう。
そんなゴルツの言葉が脳裏に浮かんだ。
甦らないようにするには、どうすれば……。
ゴルツはおそらく亡骸を焼くつもりだったに違いない。自分にできる技ではない。
首をはねるしかないのか? 刃を少女の細い首に向けた。
だが手は震え、取り落とした剣が音をたてた。そのときリアが弱々しく喘ぎ、開いた口元に細い牙がのぞいた。
アラードの目が釘付けになった。
このままではからっぽのまま甦る。魂を失くした肉体だけが、ガモフみたいな動く死体になりはてて……。
その恐怖に抗うように、追い立てられるように、内なる思いが声をあげた。
魂を失わせてなるものか。どんなことをしてでも!
すると思念がこだまを返してきた。
……この世に留める? 魂を? どんなことをしてでも?
あの牙を見ろ。もう手遅れだ。やがてガモフのように甦って、おまえの血を吸おうとするのだ。
では、甦る前に、死ぬ前に与えれば?
……魂は失われないんじゃ……?
異様な悪寒が背を走った。だが一度思いついた考えは、もはや消せなかった。そしてリアの息がさらに弱く、浅くなった。もう時間がない!
右手で剣を逆手に持ち、左の掌を刃に当てた。震える掌はたちまち裂け、鮮血が刃身を伝い流れた。
牙の伸びた口元に刃先をあてがい、紅の流れを含ませた。
喉が小さく動いた。息が止まり、大きく吸われた。
まぶたが震え、ゆっくり開かれた。
青い目が、空色の瞳がアラードの顔に焦点を結んだ。
「アラード……?」
リアが身を起こした。だが脇腹の傷が癒着した瞬間、その目が驚愕に見開かれた。
「これはなに? 流れが見える、血の巡りが見えるわ!」
見開かれた目が失せた傷に向けられ、両手がおずおずと口元をなぞった。開いた掌に赤い染みが付いていた。
再びアラードに向けられた視線が血に濡れた刃を認めた。
「まさか、アラード! なんてこと……っ」
いいかけた言葉が突然とぎれ、細い顔が中空を仰ぎ見た。
「だれ? だれなの? 私を笑うのは」
瞳が虚空を見据えていた。
「あなたなの? 私を牙にかけた!」
敵を視ている? アラードは思わず数歩近づいた。
「きてはだめ! 近づかないでっ!」
その動きに気づいたリアが大きく跳び退いた。人間離れした跳躍だった。
「転化してしまった、人間じゃなくなった……」
後じさりしながら、華奢な少女は呻いた。
「血の流れが見えてしまった。もう一緒にいられないわ!」
たちまち身を翻し、そのまま闇の彼方へ走り去った。
呆然と立ち尽くす若者の、やがて背後で呻き声がした。
「アラード。そなた、なにを……っ」
ゴルツが頭を振りつつ、半身を起こしていた。
「リアはどこじゃ……? なぜおらぬ?」
血染めの剣を認めた緑の目が、リアと同じく見開かれた。
「そなた、リアにその血を飲ませたのか!」
ゴルツは跳ね起き、アラードに詰め寄った。
「ばかものっ! リアを転化させたのか、生きたまま!」
錫杖の一撃がアラードを叩き伏せた。
「自分が何をしたのかわからぬのかっ! 吸血鬼の肉体に人間の魂を閉じ込めたのだぞ。毒蜘蛛の背に胡蝶を無残に縫い付けたのだぞ。どれだけ魂が苦しみ歪むか考えもせなんだかっ!」
ゴルツはアラードに背を向け数歩進んで足を止めた。
「火口は右の枝道を入ってすぐじゃ。ついてこい! そこにおるものも人の心を残して転化したもの、その末路の姿じゃ。初めて探知の術を使ったときわしにはわかった。そなたもその目で見るがいい!」
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