<第3章:火口 その1>

 ゴルツとアラードが辿りついたのは、それまでとは全く様子が異なる場所だった。

 これまで洞窟の広がった部分はいくつもあったが、この場所はずばぬけて広かった。地面にはいくつもの亀裂が走り、赤い光が漏れ出ていた。広大な空間は硫黄の臭いと凄まじい熱気に満ちていた。
 空洞の地面の真ん中には楕円形の火口が口を開けていた。地面からの盛り上がりは人の背の二倍程度と低かったが、広さは空洞の地面の半ば近くを占めていた。硫黄を含んだ煙がたえず立ち込め、紅蓮の炎が間欠的に吹き上がった。

 その煙と炎を背にして、人影が一つ火口の縁に立っていた。
 炎を背にしているため、見上げるアラードの目には顔も姿も判然としなかった。彼は人影の顔の部分に目をこらした。
「目を見てはならぬ!」だしぬけにゴルツがいった。
「お久しぶり、私を見捨てたお父様」
 女の声だった。それもていねいな。にもかかわらず、その毒々しさにアラードは身を震わせた。おかげでその言葉の意味を理解するのが一瞬遅れた。

「……お父様? まさか、閣下!」
「お父様。どうしてラルダと呼んで下さらないの? 哀れな娘の名前など二十年の間にお忘れになった?」
 炎がまた吹き上がり、人影は黒々とした残像と化した。その残像の顔の部分に緑色の双眸が燃え上がった。
「わかっているわ。お父様は私を滅ぼしに来たのよ。娘などではない、ただ一匹の化物として!」
 人影は火口の縁から地面にふわりと降り立った。

 アラードとさして年の違わぬ娘のようだった。いや、本来ならそうであったはずの姿だった。
 だがその姿はやつれ、苛まれ、荒んでいた。つややかな美しさを誇ったであろう漆黒の髪はおどろに振り乱され、毒蛇さながらにねじれ、のたうっていた。父親によく似た緑の炎のような強い意志を秘めた目は、しかし毒々しい憎悪に歪んでいた。異様に赤い唇からは鋭い牙がこぼれていた。
 間違いなく吸血鬼だった。
 だが、ガモフとはまったく違っていた。彼はからっぽだった。本来の人格も記憶も失われた動く死体でしかなかった。
 ラルダと名のる目の前の吸血鬼は明らかに人格を持っていた。だがそれは彼女のものでありながら、悪意にねじれ歪んでいるのがアラードにさえ感じ取れた。彼はゴルツがいわんとした言葉の意味をようやく悟った。そしてゴルツがここへ来た目的も。

「閣下は最初からご存じだったんですか。アルデガンに侵入した魔物の正体を!」
「そなたなぜ二十年もたった今になって現れた!」
 アラードには応えず、ゴルツはラルダを油断なく見据えながら錫杖を掲げた。
「仮にも神に仕える者として修行をした身でなんたるありさま。この世での妄執から解かれ、神の御元へ還るがよい!」
 瞬間、ラルダの全身から目に見えんばかりの凄まじい怒気が吹き出した。
「私に神などという言葉を吐くな!」
 牙をむき出しラルダは叫んだ。だが次の瞬間、その目がすっと細められた。
「私を解呪しようというならば神の力にすがらねばならぬはず。お父様は私に尊師アールダにちなんだ名を与えた。私もその名に恥じぬよう、尼僧として修行を積んだわ。
 その私がこの洞窟で二十年もの間どんな目にあってきたのか、それを知ってもすがれるというならすがってみせるがいい!」

 長い話が始まった。無残な、忌むべき話が。


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「もうすぐ地上だぞ」
 若き戦士ローラムがいった。彼は同期の戦士二人とともに前列に立っていた。背が高く貴公子然とした風貌と勇敢な性格ゆえに彼はこのパーティのリーダーに祭り上げられていた。

 その後ろに僧侶呪文を極めるのも目前というラルダとそろそろ高位魔術士になろうというグロスが続き、その背後をさらに三人の戦士が守っていた。若さゆえに経験こそ不足しているものの、かなりの力を持つパーティだった。
 彼らは腕試しのため洞窟に潜り、多くの亜人と三匹の魔獣のみならず、一体の巨人までも倒して帰還するところだった。誰もが予想外の戦果に高揚していた。

 だが通路を曲がったところで、彼らは行く手に長身の男が一人うつむいて立っているのに出会った。
「誰だ」リーダーのローラムが誰何した。
 くく、と嘲笑う声が返った。
「ここは我が住みか。誰何するのはこちらであろう?」
 男は顔を上げた。茶色の髪とあご髭の中年の男だった。細身の顔は本来整って見えるのが当然の造作だった。
 だが造作が少しづつ、微妙に歪んでいた。その結果凶々しくも嗜虐的な表情が貼りついていた。
「招きもなく土足で踏み入り狼藉を働いたのだ。ただで帰すわけにはゆかぬな」
 にいっと歪められた口元から白い牙がむき出された。

「吸血鬼か!」誰もが戦慄した。全員が吸血鬼との遭遇は初めてだった。年長者たちからその恐ろしさをくり返し聞かされ、つい先頃には吸血鬼との戦いは可能な限り避けろとのふれが出されたばかりだった。
 だがローラムは命じた。
「敵は一人だ。取り囲んでいっせいに斬り倒せ」
 戦いの高揚が残る戦士たちはそれに応じた。
「闇の中で我に刃を向けるか」
 嘲笑った男が片手を上げると、闇がだしぬけに濃密さを増し、六人の戦士を丸ごと呑み込んだ!
「いかん!」グロスが明かりの呪文を唱えた。しかし敵の魔力が呪文を無効化した。
「ラルダ! 解呪の技は?」「私、まだ使えない!」
 二人の術者が焦る間に、剣の打ち合う音は唐突にやんだ。

 闇が薄れたとき、男を取り囲んでいた戦士たちは全員倒されていた。誰もがおのおの自分の剣を体に突き立てられていた。
「他愛のない。余興にもならぬ」男は鼻を鳴らし、喉を斬り裂かれて虫の息のローラムに牙を寄せた。
「ローラム!」
 思わず叫んだラルダの声を聞き付け、男が目を上げた。
「ほう、これは」
 男は唇を歪めた。例えようもなく邪悪な笑みだった。
「この若造がよほど気になるとみえる。ならばこやつのこの命、汝に托すとしよう」
 ラルダに歩み寄る男の目が妖しく光ると、ラルダは体がすくみ動けなくなった。
「た、助けを!」グロスは後じさり、その場から駆け去った。
「だめよ、吸血鬼に襲われた者の救助は禁じられたばかりじゃない! グロスーっ!」ラルダの叫びが後を追った。
「ふん、そんな掟ができたか。つまらぬことだ」
 男はまた鼻を鳴らした。
「ならばこの知らせを聞いても人間どもが本当になにもせぬか、見せてもらうとしよう」

 男はラルダの前に立ち、顎に手をかけ上を向かせた。ラルダは男を睨みつけた。恐怖に挫けそうな心に鞭打って。
「美しい。意志も強い」
 舌舐めずりせんばかりの囁き声がいった。
「汝は殺さぬ。吸い殺してしまえば汝の魂は失われ、肉体のみが空白のまま蘇えるばかり。それではつまらぬ」
 喉に口を寄せた男が、ラルダの絶叫をよそにほくそ笑んだ。
「この香しい血を吸い残すのは惜しいが、それだけ楽しませてもらわねばな……」
 牙がずぶりと喉に突き立てられた瞬間、ラルダの意識もついに断たれた。





<第3章:火口 その2>

 甘美な香りにむせながら、ラルダは目覚めた。

 自分が狭い場所にいることがわかった。四方どちらを向いても岩肌が見えた。三方は一つながりだったが一方の岩壁の周囲に細い隙間が見えた。岩の窪みを大岩で塞いだようだった。
 閉じ込められている? 岩の中に? では、なぜ見える?
 その瞬間、記憶がよみがえった。
 ラルダが思わず立ち上がると、膝から何かが滑り落ちた。

 ローラムだった。もはや息が絶えかけていた。叫びそうになり口元を押さえた手に何かが触れた。伸びかけの牙だった。
 ラルダは香りの正体を悟った。ローラムの裂かれた喉から今も流れる血の匂いなのだ。

「お目覚めかな」岩の向こうから男の声がした。
「若造の方は覚めるはずもないがな」
「私たちをどうするつもりっ」
 ラルダは岩の向こうの相手を呪殺するかのように睨んだ。
「いったはずだ。そやつの命、汝に托すと」
 含み笑いが聞こえた。
「放っておけばせいぜい一刻でそやつは死ぬ。だが、すでに汝の牙には転化の魔力が備わっている。ここまでいわねばわからぬのか?」

 自分の血の気の引く音が聞こえた。
「……彼の血を吸わせる気なの? 私に?」
「命じはせぬ。托したまでだ。何度もいわせるでない」
 男の声に嘲りが浮き出た。
「むろん汝が耐えられるというなら、それはそれでよいが」
「化物! 悪魔っ!」
 ラルダは叫んだ。大岩を叩く拳がたちまち破れた。
「開けて! ここから出して!」
「汝の力では動かせぬわ。今は、な」男は声を上げて笑った。
「転化してしまえばわけなく開けられるがな」
 そして声はしなくなった。
 だがラルダには、自分がどうするかを男が見物していることが感じられた。伸びかけた牙をラルダはぎりぎりと噛み締めた。

 そんなふうにしているうち、時間の感覚が薄れてきた。足元に目を落とすと、もはやローラムの顔は土色になりかけていた。
 狭い岩穴いっぱいに血の香りが充満し、ラルダは麻痺するような感覚に襲われた。牙が疼き、凄まじい渇きが彼女を捉えた。
 放っておけばローラムは助からない。
 渇きに抗おうとするラルダの耳に、そんな声が囁いた。
「だめ! できない、そんなこと……」
 ならば放っておけばいい。彼は死ねる。あとは自分一人が化物になるだけのこと。
「一人で……。一人だけで?」
 脅えたラルダに声がいった。
 彼の身代わりになりたかったのだろう?
「あんな男の餌食にしたくなかった。だから叫んでしまった」
 自分が化物になりたかったわけではないと?
「当たり前じゃないの!」
 だがもう人間として死ぬことはできない。

 言葉を失ったラルダの心に、なぜ私だけがとの思いが湧き出し渦を巻いた。それに乗ずるように、内からの声は続けた。
 彼は人間として死ねるなら救われる。一人で救われる。
「死なせたりしないわ! こんなことで、こんなところで!」
 なにかが変だ。なにかが間違っている。
 ラルダの心のどこかで別の声がした。だが圧倒的な渇きがそれを押し潰した。
 ローラムの半身を掻き抱いた。鮮血を間近に感じて牙がさらに伸びた。心のどこかが悲鳴を上げた。
 だが次の瞬間、疼く牙はローラムの傷口深く潜り込んだ!



「どうしたの? 私……。何をしたの?」
 渇きの狂気が去ったあと、ラルダは呻いた。
 足元にはローラムの亡骸が転がっていた。
「なかなか耐えたほうではないか」
 泣き叫ぶラルダに、大岩の向こうから声がかけられた。
「おかげで若造の魂は失われたようだが」
 言葉にならぬ絶叫をあげ、ラルダは大岩に掴みかかった。その身もろとも大岩は倒れ、まっぷたつに割れた。
「ほうら、簡単に開いたろう?」
 邪悪な嘲笑を浮かべた男が立っていた。
「殺してやるわ……。許さない!」
 血の涙が流れる目に憎悪のありったけを込めて、ラルダは男を睨みつけた。
「無理なことよ」男は肩をすくめた。
「吸血鬼は吸血鬼を殺せぬ。そもそもめったなことでは死ねぬ。汝が我を殺せぬだけではない。我も汝を殺せはせぬ」
「だが、牙にかけた者を支配することはできるのだ」
 男の目が妖光を放ち、ラルダは金縛りにあった。

「魂が失われた者は全くの下僕だ。その若造もそのうち空っぽのまま蘇る。そこで人間の血を吸えたなら転化を終えられる。めでたく汝の下僕というわけだ」
「冒涜よ!」
「汝が牙にかけたのだぞ」男はあざ笑った。
「こやつは転化できぬよ。汝がここにいた間、若い男が乱入してきて洞窟をだいぶ焦がしたが、巨人に半殺しにされて連れ帰られたばかりだ。当分人間どもは洞窟へは来ぬ。だからこやつは血を得られず死ぬしかないというわけだ。いっておくが、汝の血など与えてもむだだぞ。汝はもう人間ではないのだからな」
「はじめからわかっていて……っ」
 歯噛みするラルダにかまわず、男は続けた。

「だが、生きたまま転化した者は魂を失わぬ。肉体が我の支配に逆らえずとも、魂だけは抗おうとする。だから面白い」
 男は笑った。牙を、嗜虐的な本性を剥き出して。
「少し前に我が牙を受けながら地上に連れ帰られた娘がいたが、我がもとへ戻る前に魂を擦り切れさせてしまった。アルマ、とか呼ばれていたか。あれでは話にならぬ」
 ラルダは蒼白になった。男の本当の目的がなんだったのか彼女はようやく悟った。これが始まりなのだ。

「汝のような者を手に入れることを長い間待ち望んでいたのだ。手離しはせぬぞ、永劫に……」





<第3章:火口 その3>

 ラルダの言葉がとぎれた。
 その顔が苦悶に歪んでいた。脳裏に去来するものに耐えるかのように固く目を閉じ、歯を食いしばっていた。伸びた牙が唇を食い破り、血がしたたり落ちた。
 あまりにも無残な話に、アラードは呆然としていた。
 ゴルツはどんな思いで聞いているのだろうと思った。だが自分を庇うように一歩前に立っているゴルツの表情をうかがうことはできなかった。

「そしてあいつは、私をありとあらゆる方法で責めなぶった」
 絞り出すような声だった。聞く者の耳朶を毒するような呪詛に満ちていた。
「いうことをきかぬ体に閉じ込められた魂が悶え苦しむのをあいつは何より悦んだわ。二十年もの間、私をなぶり苛み飽きることさえなかった。憎悪と絶望になすすべもなく私が毒されるのを、歪んでいくのを、堕ちてゆくのを、あいつは、あいつは……」
 ラルダが目をかっと見開いた。乱れた髪がざあっとざわめき、黒蛇のようにのたうった。
「あいつは私に自分で自分の首をもぎ取らせるのをことさら好んだ。それでも私は死ねなかった。ただただ苦しいだけで、意識が途切れることさえなかった。
 どうすれば私は死ねるのか、そればかり考えていたわ。化物として神が私を滅ぼしたもうことを狂気の淵すれすれのところで夢見ていた。私が彼を殺したのだから当然罰が下るはず。下らないはずがないと……。それでも、何度殺されても、私は蘇るばかりだった」
「お父様は私を見捨てた。それだけじゃないわ! 私があれほど滅びを望んでいたときにとうとう来なかったじゃない! それが今になってなに? 遅いわ! 遅すぎる……っ」
 ラルダの呪詛の声にもゴルツは身じろぎもせず、ただアラードに背を向けて立っていた。

「とうとう私はこの火口に身を投げた。溶岩が体を焼き尽くし、骨まで溶けて形を成さなくなったわ。
 それでも、いつまでたっても私の意識は消えなかった。あまりの苦痛に耐えられなくなって、私の意識は岩壁を這い上がった。溶けた体が続いたわ、しだいに形を取り戻しながら。長い、長い時間かけて……。
 やっと上に辿りついたらあいつが縁に立っていた。笑っていたわ。余興だ、よい余興だと。そして私を蹴り落とそうとした」
 双眸が凄惨な光をおびた。
「私は夢中で足首を掴んだ。せめて道づれにと、ただそう思って岩壁を蹴った。二人とも落ちた。でも私は途中の岩棚に引っ掛かり、あいつだけが溶岩に落ちたわ」

 ラルダは狂ったように笑い出した。
「落ちたのよ、落ちたのよ。初めて私があいつを苦しめることができたのよ! あいつの悲鳴を初めて聞けた、それがやっと半年前だったのよ」
「支配の魔力が薄れ、私はついに自由を取り戻したと思ったわ。でも……」

 笑い声がやんだ。
「あいつも這い上がってきた、私と同じように。半日ほど時間をかけて。だから岩をぶつけてまた叩き落としてやったわ」
 憎悪に満ちた声に、まぎれもない恐怖の色がにじんだ。

「私はここを長い間離れることはできない。半日であいつは這い上がってくる。そのたびに叩き落とさなければ私の体はまた支配されてしまう。私はこの世の終わりまでそれを続けて、それでも先に滅びるしかないのよ!」
「なぜ、なぜなんだ……」アラードは思わず呻いた。
「吸血鬼は存在し続けることで力を増してゆくからよ」
 ラルダが答えた。
「あいつは私より古き者。だから人間が滅んだ後も、私より長く生き延びる。私はついにあいつを超えられない、それが吸血鬼の理……」

「……なぜなの?」
 ラルダの声が変わった。底知れぬ怨嗟の呻きだった。
「なぜ、私なの?」
 体が震えていた。
「なぜ私がこんな目にあわなければならないの? これでも神がいるというの?」
 ラルダは射ぬくようなまなざしで、ゴルツを真正面から睨みつけた。
「答えてよ! 答えられないの? お父様!」
 アラードはゴルツの背中が震えているのに気づいた。

「お父様は私に期待していた。だから私も厳しい修行を積んできた。そうよ、神に仕える者として」
「その私をなぜ神は救わなかったの?
 なぜこんな身に堕ちなければならなかったの? よりによって彼の血をむさぼって!」
「なぜ私はこんなに長く、あんな男にここまでなぶられなければならないの?
 どうしてあいつが滅びるのを見ることさえできないのよ!」
 アラードはゴルツの背が縮み、曲がったような気さえした。

「私でなければならなかった理由なんてないわ! 他の誰かでもよかったはずよ! 他の人間ならこんな運命を免れていいとでもいうの? これも神のおぼしめしだというの?」
 ラルダの双眸が真っ赤に燃え上がった。
「許さないわ! 運命を免れる者も、それを許す神も!
 ならば私が神の定めた運命をねじ曲げてやるわ!」
 ゴルツの背中がぴくりと動いた。

「昨夜あいつを溶岩に落としておいて、私は二十年ぶりにアルデガンに戻った。渇きで気が狂いそうだった。あいつは私が狂ってしまえば面白くないといって自分の吸い残した人間を私に与えたりしたけれど、あいつが溶岩に落ちてからは渇きを癒すことさえできなかったから」
「それなのに、渇いていたのに、狂いそうだったのに……」
 ラルダは目を伏せた。
「二十年前、あの日まで暮らした部屋に足が向いたわ……」
 血の色の涙が一筋こぼれた。
「わかっていたのに、あの日になんか戻れはしないのに。
 それでも帰ってしまった。幻でも錯覚でもかまわなかった。
 なのにそこには! その場所には……っ」
 燃える双眸が再び見開かれ、虚空を睨み上げた。
「私の部屋にはあの娘がいた。髪も目の色も違う、あの日の私よりずっと年下の、まだ生まれてもいなかったような小娘が!」
「なぜここにいる、ここは私の場所だったのに! そう思ったら憎くてたまらなくなった。死んでからっぽになるなんてことでは許せなかった! 生やさしすぎたわっ」
 炎の照り返しを受けた牙がぎらりと光った。
「だから小娘を牙にかけた。気が狂いそうに渇いていたけれど、どうにか殺さずにすませたわ。かわりに見張りの戦士を一人吸い尽くさなければ収まらなかったけど」
「でも、どうしても許せなかった。私と違う運命を辿ることなどあってはならないと思ったわ。だからこの牙でねじ曲げてやったの、あの小娘の運命を!」

「それが、そなたの望みか?」
 ゴルツの声は、軋むようだった。
「これでも神がいるというなら、これこそ神の望みよ」
 ラルダが応じた。
「この身を愛する者の血さえむさぼらずにいられなくしたのも、この牙に運命をねじ曲げる力を与えたのも神なのだから。そうでしょう? 違うとでもいうの?
 ならば私は神の与えたこの力を心のまま振るうまで!」
 ラルダは両手を広げた。
「解呪できるものならするがいい! あいつにあれほどなぶられながらも抗い続けた私よ。簡単には滅びないわ!」
 鋭い爪がめりめりっと伸びた。
「私が勝てば、お父様は私の下僕よ。そのばかな子の喉を裂いて岩穴にいっしょに閉じ込めてあげる。死ぬなんて許さないわ! 永遠にこの場所であいつの番をさせてやる。
 あいつの心配さえなければ私はアルデガンに戻れる。神の御心とやらがどんなものか、誰もが思い知るべきよ!」

「……是非もなし」
 ゴルツが呟くと、やおら顔を上げた。縮み曲がったようだった背筋が固く伸ばされるのをアラードは見た。
「わしは確かにそなたを見捨てた。アルデガンの長としてそなたの救出を禁じた。そのせいでそなたはこれほどの地獄に身を置き苦悶した。どれほど恨まれ責められても仕方がない。我が身一つのことならば地獄へ落とされてもかまわぬ」
 やつれた手が錫杖を掲げた。
「だが、それゆえアルデガンに、いや、全ての人間に仇をなすとなれば話は別じゃ。己が身を焼く地獄へ他の者をもろともに引き込むというならば、そなたは溶岩に落ちた化物以上におぞましい悪鬼に堕ちたのだぞ!」
 錫杖が目もくらむような白い光に燦然と輝いた。
「アルデガンの長として、神に仕える者として、わしはそなたを滅せねばならぬ!」
 ゴルツは解呪の印を結び、呪文を唱えた。
「神の意思とやらを試そうというのね。望むところよ!」
 鬼相を剥き出してラルダが叫んだ。全身から吹き出すどす黒い妖気にあおられてねじれた黒髪が逆立った。

 アラードの目の前で、途方もない力と力が真正面からぶつかりあった。その衝撃は目に見えるかとまがうほどだった。
 ゴルツもラルダも身動き一つしなかった。いや、できるはずがなかった。すべての力が精神の嵐となって、互いの存在を、魂をじかに削りあっているのがアラードにさえわかった。思わず彼は膝をつき、己の剣でからくも身を支えた。
 ゴルツが不利だとアラードは直感した。精神の力は全く互角、これはおのずと長期戦になる。ならばあとは戦いを支える肉体がどれだけの時間に耐えられるか。ゴルツはしょせん老境を迎えた人間、ラルダは不滅の肉体を持つ吸血鬼。
 勝てるはずがない! アラードは焦った。焦ることしかできぬ身で。

 ゴルツは戦慄していた。いままで吸血鬼を解呪したことは何度かあったが、ラルダの力はまったく桁違いだった。これまでの相手は死んで転化した者ばかりだった。人間の魂のまま転化して、憎悪と怨念を支えに二十年も抵抗を続けてきた意思の力がかくも凄まじいものだったとは!
 長期戦になればとうてい勝てぬ。なにがなんでもここで滅ぼさねば! 焦りを無理やり押さえつけ、ゴルツはひたすら念をこらした。

 だが、ラルダもまた焦っていた。時間がない! あいつが這い上がってきてしまう……。
 たかが人間、それも年寄りと侮ったのが間違いだった。アルデガン最高の術者である父の力はやはり破格のものだった。
 なんとかしなければ! でも、どうすれば……。

 そのときラルダは思い出した。この洞窟には自分が牙にかけたあの小娘がいる!
 いっそう激しさを増す精神の嵐をしのぎつつ、ラルダは思念で呼ばわった。牙を受けた者に向け、我が支配に従えと!





<第3章:火口 その4>

 応えはなかった。ラルダは意識を伸ばしてリアの意識を探り補えた。リアはずっと洞窟の奥の通路にいた。彼女が泣いているとラルダは感じた。堕ちた我が身を嘆いているのだと思った。
「今すぐここへ! あいつを溶岩に叩き落すのよ。ぐずぐずしないでっ」
「ラルダ。あなたは、なんて、痛ましい……」
 リアから切れ切れの思念が返ってきた。
「なに……? なにをいっているの? おまえは」

「あなたは心の底で自分を憎んでしまった。愛する人の血をむさぼって転化したことを許せず、あまりにひどい仕打ちに汚され歪められた自分を嫌悪して……。でもあなたは自分を滅ぼせない。だから他の人を全て憎むしかなくなったのよ」
 より明瞭な思念が返ってきた。
「あなたの思いはわかるわ。もし同じ目にあっていれば、きっと私も同じように歪んだと思う。私をこんな身に堕としたあなただけれど、とうてい憎む気になれない……」
「それはなに? 同情しているつもり?」ラルダは苛立った。
「ごたくはいいわ、従うのよ!」
「痛ましいラルダ……。でも、従うわけにはいかないわ」
「なんですって!」
「あなたはたしかに私の運命をねじ曲げた。でも牙が変えられるのは体だけ。私の心まで、魂まで思いどおりにできるなんて思わないで!」
 牙を介して結ばれた意識を通じ、空色の瞳がまっすぐラルダを見つめていた。

「あなただってそのおぞましい男と違うでしょう。心も運命も。当然よ! それほど憎み呪う相手のまねなんかできるはずがないもの。
 そいつだって転化させた相手とは似ても似つかないと思うわ。その嗜虐と邪悪さ、死んでからっぽになった者ではないはずよ。ただ渇きのみに駆られて動く者なんかじゃないもの。人間のまま転化して歪んだのよ、あなたとは全然違う形で。牙にかかれば人の身ではなくなる。でも心を、魂を変えるのは牙の力なんかじゃない。だからそいつも、あなたも、私もみんな違うのよ。
 だったら同じ運命になんか、地獄になんか、誰ひとり落とせるはずがないじゃない!」
 ラルダはとっさに応えられなかった。

「あなたも本当はわかっているのよ。わかっているから呪わずにいられないんでしょう? だれもあなたと運命をともにはできないって。ラルダ、痛ましいあなた……。
 だからこそ、あなたの無念は晴らせない。たとえ全ての人間を牙にかけてもなんにもならない。魂の渇きは癒せない。不毛さに永遠に苛まれるだけよ」
「牙持つ身でありながら何様のつもり? おまえだって、おまえだっていずれ人間の血をむさぼるしかないくせにっ!」
「私はたしかにこんな身に堕ちた。でも、転化を遂げてしまってわかったわ。私の心は私のまま、いまも私のものだって」
 ラルダはその言葉を否定できなかった。いい返すことさえできなかった。

「私は自分が助かりたくてここへきたんじゃない。助かるはずがないと思っていたから。必ず死ぬと思っていたから。
 私の恐怖や絶望を他の誰にも味あわせたくない、ただその思い一つでここまできたのよ! 私が私である限りこの思いは変わらない。転化を遂げたいまも私の思いは潰えていない」
 ラルダは感じた。青い目に、空色の瞳に宿ったまぶしいまでに激しい光を。
「だから私は従わない! みんなに仇なすつもりなら! たとえあなたがどれだけ強くても、私が逆らって勝てる見込みなんかなくても!」
「小癪な!」怒りのあまりラルダの口から思わず声が出た。だがその怒気にも臆せず、リアは続けた。
「あなただってわかっているでしょう? なにかが違っていれば少なくとも心は、魂はこうではなかったはずだって」

 なにかが変だった、なにかが間違っていた。
 ラルダの心のどこかで声がした。
 あのときなにかが違っていれば……。
「黙れえーーーーーーっ!!」
 ラルダは絶叫した。驚いて自分を見るゴルツやアラードたちのことなど全く眼中になかった。
「おまえに人の心を残したのが間違いだったというのね。ならばその心、いま握り潰してくれるっ!」
 ラルダは圧倒的な思念をリアに振り向けた!

 ラルダの気がそれたのをゴルツは見逃さなかった。尽きる寸前の気力を振り絞り、ぎりぎりの一撃を放った。
 ラルダが気づいたときはもう遅かった。見えざる刃が魂の中枢を直撃した。肉体を不滅たらしめていた力が砕かれ、彼女の姿は霧のように霞み始めた。
「おのれ、おのれえぇ……」
 身もだえしながらラルダは呻いた。
「なに一つ思いを遂げていない、無念を晴らせて、いないのに。こんな、ことで、こんな、ところ、で……」
「もはや、滅びの刻。還れ、神の御許へ……」
 膝をつき肩で息をしながら、ゴルツが必死に呼びかけた。
「恨みを、残すな……。妄執から、解かれよラルダ……っ」
「私に、神などと、いう、言葉を、吐、くな……」
 ラルダがいった。散りゆく声をかき集めるように。
「私は、望む。アルデガン、が、燃え、上がる、のを。呪、う、全、て、の、……者、を……」
 その声がついに絶え果てたとき、ラルダの姿は霧散していた。だがアラードには、その無念と呪詛がいつまでも洞窟にこだまを引いているように感じられた。

 こだまを追うように見上げたアラードの視線が、そのとき動くものをとらえた。
「閣下! あれは……」
 息を切らし膝を屈していたゴルツも顔を上げた。
 火口の上に人影が立っていた。焼けただれ顔も定かでなかったが、それでも急速に回復しつつあった。ラルダに仇なし苦しめた吸血鬼がついに這い上がってきたのだ!
 あいつをなんとかしなければ。アラードは焦った。だがラルダとの壮絶な戦いで消耗したゴルツは、まだ立つことさえできずにいた。
 やがて溶け崩れた顔に二つの目が開き、彼らを睨みつけた。
「我が牙の人形を、かくも得がたき慰みものを滅せしは汝らか。この小癪な所行への罰を存分に与えんとせしものを。
 ならばせめて汝らに仕置きを与えてくれるわ」
 それを聞いたアラードは怒りにかられて前にでようとしたが、異様な声に思わず足が止まった。
「き……さ……ま……ぁ」

 アラードにはそれが目の前のゴルツの発した声だとは信じられなかった。なにかが彼の知るはずの声とかけ離れていた。人間のものだということすら受け入れ難い声だった。
 ゴルツは息を切らしたまま、錫杖を杖代りに片膝をつき、火口の上の吸血鬼を見上げていた。アラードには崩れた顔の吸血鬼がたじろいだように見えた。
「……きさまに、かける慈悲など、ない。肉体も魂も、もはや、還る場所など、ないと知れぇえっ!」
 その言葉とともに錫杖が輝き始めた、だが火口から吹き上がる焔に映えたせいか、アラードには先ほどの白い光とは異なり昏い赤みをおびているように感じられた。
 次の瞬間、地に突き立てられた錫杖から稲妻のような激しい閃光が迸った。それは地を走り火口を駆け上がるとまだ本来の姿を取り戻していない吸血鬼を直撃した。
 焼け爛れた吸血鬼は消し飛んだ。
 ゴルツもその場にくずおれた。
「閣下!」アラードは駆け寄り、助け起こそうとゴルツの正面に回りこんだ。だが、差し伸べようとした手が凍りついた。

 鬼の顔だった。緑の双眸は憤怒に炯炯と燃え、髪も髭もおどろに振り乱されていた。
 ゴルツとの戦いに臨んだラルダの鬼相そのものだった。まるで娘の怨念が解呪した父に取り憑いたかのようだった。
「……無念じゃ、もはや限界。リアを追うことはできぬ……」
 ゴルツは呻いた。
「まだあれの犠牲者はおらぬ。居場所を探るすべもない。もはやこれまで……」
「アラード、わしの手を取れ。アルデガンへ転移する……」
 ゴルツが呪文を唱えると、二人の姿は洞窟からかき消えた。
 火口からまた紅蓮の炎が吹き上がり、誰もいなくなった巨大な空洞を乱舞した。


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 リアが意識を取り戻したのは、全てが終わったあとだった。

あの瞬間、リアは支えの腕輪を握り絞めラルダの凄まじい思念に抗がおうとした。
 しかし吸血鬼の理に逆らい自分を転化させた相手に抗がうのがそもそも無理な上に、ラルダの桁違いの意志力が相手では勝負にならなかった。最初の一撃でリアは昏倒したのだった。
 リアは支えの腕輪に目を落とした。いまだ輝きを失わない腕輪に、しかし亀裂が入っていた。これがなければ一撃で自分は魂を砕かれ、空ろな生ける屍としてさまよい歩いていたはずだった。いや、もう少し攻撃が続いていれば腕輪も砕け散り、同じ結果になっていたに違いない。
 だが、そのラルダの存在がぽっかりと消失していた。
 リアが意識をどこまで伸ばしても、洞窟の中にはラルダも、溶岩に焼かれたおぞましい男も、その他の吸血鬼もまったく存在が感じ取れなかった。
 彼女は悟った。洞窟に残った吸血鬼は自分だけなのだと。

 自分がどうすればいいのかリアは途方にくれた。洞窟の探索はなし遂げられ、アルデガンを襲った吸血鬼は滅んだ。だが自分がこんな形で取り残されることなど想像もしていなかった。探索の途中で自分は命を落とすものと思い詰めていたのだったから。
 まさか人間の心のまま転化してしまうなんて……。
 もうアルデガンに戻るわけにはいかない。

 もしアルデガンに戻ろうとするとしたら、それは……。

 彼女は脅えた。自分の想像のおぞましさに。
「おまえだっていずれ人間の血をむさぼるしかないくせに!」
 いなくなったラルダの残した呪詛が、それゆえそれ自体の意味を突きつけてきた。思わず呻き、耳を押さえた。

 やがてリアは立ち上がり、アルデガンから少しでも離れるべくよろめきつつも坂を下り始めた。洞窟の奥へ、地の底へと。この世の外へ通じる道がどこかにあるのを、溶岩でさえ焼き滅ぼせぬ呪われたこの身を無に帰せる場を、ただ一心に願いつつ。





<第4章:執務室>

 アルデガンに戻ったゴルツは指導者たちを招集し、アルデガンを襲った吸血鬼が滅んだこと、だが転化を遂げてしまったリアが洞窟の奥へと姿を消したことを報告した。アラードも集会に同席していたが、特に発言を求められることはなかった。
「まだあれの犠牲者はおらぬ。こちらから居場所を探知することもできぬ。いまは捨て置くよりすべはない。
 だが、いずれ渇きにかられ戻ってくるはず。そのときはなんとしても水際で滅ぼさねばならぬ。侵入を許せばアルデガンは破滅じゃ」
 ゴルツは吸血鬼の脅威が消えていないことに重点を置いて報告し、アルデガンに侵入した吸血鬼の正体やリアの転化のいきさつについては巧みに説明を避けていた。そのため指導者たちからもそれらに対する質問は出なかった。
 アラードは内心ほっとして指導者たちの顔を見渡した。すると一つの視線が自分に向けられているのに気づいた。

 ゴルツを補佐する司教グロスだった。彼は話を続けるゴルツにときおり目を向けながらも、アラードに探るような視線を投げかけていた。
 グロス! 突然アラードは気づいた。二十年前ラルダが襲われたときに一人逃げかえった魔術士は彼だったのでは?
 集会が散会するとアラードの予想どおり、グロスは彼に自分の執務室へくるよう小声で命じた。


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 グロスの執務室はゴルツの部屋と同じ階にある、飾りけのないきちんと整頓された部屋だった。頑丈な扉を閉めると部屋の中は仕事に集中するのにふさわしい静寂に包まれた。
 グロスは自分の椅子に腰をかけるとアラードにも向いの椅子に座るようにいった。
 アラードはグロスと間近に向き合うのは初めてだった。短躯で小太りのグロスはそろそろ髪に白いものが混じり始めていた。実直な実務家肌の人物との評判で、呪文はかなり身につけているといわれていたが、ゴルツが持つような高位の術者に特有の威圧をアラードはなぜかグロスに感じなかった。

「アラード、洞窟での出来事を閣下は伏せておられるであろう。そなた、口止めされておるのか?」
「口止めされているわけではありませんが……。でも、なぜ私に尋ねるのです? あなたなら閣下に直接尋ねることもできるはずでは?」
 グロスは答えなかった。だが、その表情に走った微かな動揺をアラードは見逃さなかった。
「閣下に遠慮なさっているのですか? 心当たりがおありなのでは?」
「尋ねているのは私だ。そなたは答えてくれればよい!」
 グロスが声を荒げた。
「アルデガンを襲った吸血鬼は何者だったのだ?」

 アラードはグロスの目をまっすぐ見つめた。
「お聞きになる覚悟はおありですか?」
「長身の……髭のある、恐ろしい男か?」
 グロスの声がかすれた。
「たしかにそいつも洞窟にいました。顔は焼けただれていて定かではありませんでしたが」
 アラードは答えながら、相手の恐れている答えがそれではないことに気づいていた。
「でも、アルデガンに侵入したのはそいつではありません」
「では、まさか……」
 あえぐグロスに、アラードは告げた。
「ラルダと名乗る女でした。閣下の娘だといっていました」
「ああ、ラルダ……。では、やはり閣下は愛娘を手にかけられたのか!」
 グロスは呻いた。
「だがなぜだ。あれから二十年もたつのに……」
 アラードは火口でのできごとをグロスに語り始めた。


「私が……、私が逃げ出したばかりに、あのラルダが……」
 話が終わると、グロスは両手で顔を覆った。
「私がラルダを、閣下をも、それほどまでに苦しめてしまったというのか……っ」
「あなたが逃げなかったとしても、あんな吸血鬼が相手では同じだったのではないですか?」
 あまりのグロスの悲嘆ぶりに、アラードはそう声をかけた。
「閣下もそうおっしゃった。行く手をふさがれてしまったのでは同じだったろうと。ローラムたちが突破して逃げのびようとしたところで、結果はなに一つ変わらなかっただろうと。
 無様に逃げ帰った私に、閣下はそなただけでも戻れてよかったとまでおっしゃってくださった! 内心どれほど無念であられたろうに……」
 グロスは涙を流していた。
「あのとき私は、これからただ閣下のために尽くそうと思った。身も心も捧げようと……。だからこそ司教としての長い修行も始めたのだ。
 だが間に合わなかった。私が解呪の技さえ身につけておれば、閣下が自らラルダを滅するなどということには……」
「なぜ私はかくも無力なのだ!」
 アラードはグロスになんといえばいいのかわからなかった。

「洞窟から戻られた閣下のご様子は変だった。閣下がただ吸血鬼を滅ぼされただけなら御心がゆらぐようなことはないはず。だが長くお側に仕えた私には、どこかが違って感じられた。まさか、と思った。だが閣下にお訊きすることなどできぬ。だからそなたに尋ねたのだ。だが、ここまで無残なことであったとは……」
 グロスは顔を上げてアラードを見た。
「閣下の御心は危うい。おそらく禁呪の呪いも影を落としているはず」
「禁呪の呪い……? どういうことですか?」
「そうか、そなたは戦士だったな。知らぬのも無理はない」
 自分をなんとか落ち着かせようとしながらグロスが応えた。
「解呪の技はもともと異教徒の呪殺の邪法をもとに作られたものなのだ」
「異教徒の、呪殺の邪法……」
 なんとも禍々しい言い方に、思わずアラードは繰り返した。
 そんなアラードに、グロスは解呪の技の由来について語り始めた。


 はるかな昔から、破邪の神格ラーダに仕える僧侶たちは魔物を討つ方法を探求してきた。とりわけ吸血鬼を滅する方法の探求は困難を極めた。そしてある時、ついに一つの方法が遠い異郷から持ち帰られた。
 だがそれは恐ろしい方法だった。そもそも吸血鬼を滅ぼすため編み出されたものでさえなかった。
 相手の存在を否定する意思の力で肉体はおろか魂の水準においてさえ相手がこの世に存在することを禁じるという、あまりにも邪悪な呪殺の技だったのだ。一族を皆殺しにされ自らも目をくりぬかれた一人の男が、仇敵を憎むあまりその後の生涯を費やして魔道を追及した果てに編み出したのが由来だったという。

 そもそも自らの教義とまったく相容れぬ邪悪な呪殺の技。しかしそれが肉体よりむしろ魂の水準において相手の存在を禁じるという原理をもつゆえに、いわば不滅の魂に肉体が呪縛された存在たる吸血鬼にこれほど有効な方法は他に見つからなかった。
 そこでラーダ教団は、長い年月をかけてこの邪法を自らの教義と目的に即したものに作り変えた。対象を吸血鬼に限定し、教義に反する術式の中には宗教的な禁忌を組み込んで歯止めをかけて禁忌を侵さない場合しか術が先に進めぬようにした上で、浄化と鎮魂の祈りを織り込んだのだ。
 こうして完成された解呪の技は、ラーダの教えを修めた高僧にしか扱えず、術を唱える者の心を試しながら先に進む極めて困難な術式となった……。


「思えば元々は相手を痕跡も残さず滅殺する邪法に浄化と鎮魂の祈りを織り込んだのは矛盾というほかない行為だった。そのためこの技は術者に極端に正しい心と意志力を求めるものになったのだ。それゆえ解呪の技は、単に術式を身につけたからといって扱えるとは限らぬものになった。私も術式を修得できてはいても、いまだに発動させることができずにいるのだ」
 グロスの口調に苦いものが混じった。
「相手の存在を魂にいたるまで抹消しようというのに浄化と鎮魂を捧げる。これは吸血鬼としてのあり方は禁じるがもともと人間として生まれた魂は救済したいということにほかならぬ。だが、おおもとの術式はその魂を破壊しようというものであり、それが吸血鬼の不滅の肉体の呪縛を破る原理であるのだから無理があるとしかいえぬ。髪一筋でも心が逸れれば発動できず、おおもとの邪法に比べれば大きくその威力を削がれた術式。これが解呪の技の実態なのだ」

 アラードの脳裏に、ゴルツが焼け爛れた吸血鬼を滅殺したあの凄まじい光景がよみがえった。
「では、閣下がラルダの仇を滅ぼした、あの技はまさか!」
「そなたの話を聞く限り、正しい解呪の技の発動ではない」
 沈痛な面持ちでグロスが応じた。
「閣下はとうていきゃつの魂の救済などというお気持ちにはなれなかったはず。それでは普通なら解呪の技は発動せぬ。だが閣下の憤怒の念があまりにも強かったばかりに、本来の邪法としての形で発動してしまったものと私は見る。さもなくばそなたのいうような状況下で、そのような威力で吸血鬼を滅ぼしうることなどありえぬ!」
「では、さきほどおっしゃった禁呪の呪いというのは……」
 アラードの言葉にグロスは首肯した。
「幾重にも術式の中に織り込まれた宗教的な禁忌を、神に仕える身で侵したのだ。術者の心はただではすまぬ。愛娘を我が手で滅ぼした上にそのような痛打を心に受けて、見かけだけでも平静を保っておられること自体が奇跡のようなものだ。このうえ閣下が解呪の技を使われれば、もはや何が起こるかわからぬ!」
「だがいずれリアは戻ってくる。転化した身でいつまでも渇きにかられずにいるはずが……」
 いいかけたグロスの言葉がとぎれた。

「……まて。犠牲者がまだいないというなら、リアはなぜ転化を遂げた? アラード!」
 グロスは目を見開き、アラードに詰め寄った。
「そなた何か隠しておろう!」
 今度はアラードが動揺する番だった。

「……リアは、私を庇って瀕死の傷を負いました」
 アラードは言葉を詰まらせながらいった。
「耐えられませんでした、リアが失われるなんて。私のせいなのに……。
 それで、私の傷からしたたる血を……」
「そなた、なんという!」
 いいつのろうとしたグロスの言葉は、再びとぎれた。

「……今ここでそなたを責めてなんになる。いや、そもそも私に責める資格があろうか。ラルダを見捨てて逃げ、閣下をここまで苦しめた私に……」
 グロスは暗澹たる面持ちでつぶやいた。
「閣下にとって、リアはラルダやきゃつのような縁の深き者ではない。ラルダのような凄まじい力も持ってはおるまい。解呪するには組し易い相手のはず。それだけがせめてもの救いか……」

 深まる宵闇がしだいに閉ざしていった。もはや言葉もなく向き合う二人の姿を。
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